6月29日 接待づけの一日

6月29日 接待づけの一日
昨日は今治の四国88ヶ寺第59国分寺を参拝して終わった。そうして、休暇村に密かに潜入して一夜を過ごした。

6月29日荷造りをして、さあ出発しようかと思っていたら、雨が降りだした、そのうち本降りなった。

びしょ濡れ覚悟で歩くこともできず、また昨日から雨が降りだしたら、雨宿りしておこうと考えていたので待機を決め込んだ。
そこで横になり、そのうち寝ていた。

気がついた時、雨は上がっていた。
もうふりそうもない。昨日も予報に反して雨は早朝だけだった。急きょ8時過ぎになって出発することにした。

毎日、日射しで汗だくになっていたが、今日は違う。
異常に蒸し暑い汗が絶え間なく湧き出てくる。空は曇って太陽は出ていないが汗が吹き出る。
歩くのに勢いつけるため、唄をうたったり、詩を朗読したりしていた。
そのうち顔施の事を考え出した。声をだし笑ったり、笑顔を作ったり、歩きながらしていた。

通りすぎて、パンでも買っておこうと思った。前向いたまま、後退りしながら小さな食料品店の硝子戸を開け、パン有りませんかと言いなから店に入った。。
大きな荷物にを背負ったまま、窮屈に店を物色した。買いたい物は余り無かったが、菓子パン二つとキャラメルコーンを買った。それで300円払った。パンは120円はすると思うんだけど。
店主と話し込んでいたおばさんがリポビタンDを一本接待ですと言ってくれた。

電動シニアカーに乗ったおばさんがこちらに向かってくる。停まって手元で何かしている。
私は「おはようございます」と言う。
おばさんはお接待ですと言って50円玉を下さった。

しばらく行っていると、後ろから大変ですねと声をかけられた。そこで接待しますと言われ、酒屋の中に入られた。
何にしますかと言われた。昼間からビールとも言えない。自動販売機で100円の安売り表示してあるのを見てコーラを下さいと言った。
声をかけてくれた女性は酒屋の人らしい。
男の人が出てきて自動販売機からコーラを二本袋に入れて私に手渡した。

思いがけない接待で気分ルンルンになって足どり軽く、道も少し下り坂で勢いついたのかも知れない。

そろそろ昼近くなる。店屋は何軒かあったけど飯屋はなかった。
何処かでさっき買ったパンで昼飯にしたいけど、このへん住宅街で座わる場所もない。
下り坂で足どりは軽い、こんなことで昼飯が何時も遅くなってしまうのだ。

そんな時、住宅街の一軒の垣根のない玄関さきに「お遍路さん接待所 お気軽に茶をどうぞ 鈴なる」の看板が出ていた。
そして長椅子とテーブルが設えてあった。
そこでさっき買ったパンで昼飯にした。時刻を確認するとちょうど12時を過ぎたところでした。

食卓を片付け、荷造りをしていると、そこの主人がお出かけになる。
私がお礼を言うと、彼は何か作りましょうと家の中にもどろうとする。
私は食事は終わりましたからと断った。
ご主人は言った、四国では何処でも優しいです。スーパーに居れば残った物をもらえますよ。等と話された。

道々、挨拶して交わされた言葉。
今日は蒸し暑いですね!
雨上がって良かったですね、歩くには丁度よいですね(日射しがなくて)!
ようお参り!
と声をかけられた。

今日は四国八十八ヶ所のお寺ではなく別格二十霊場をニヶ寺目指している。
今は別格10番の西山興隆寺目指して歩いている。
いよいよ上り坂になってきた。そのころから雨が降り始めた。私は傘をさした。ザックには朝から雨避けの防水カバーをしている。
雨は時に激しくふり、足元を濡らした。カッパをはけばはいたで蒸して濡れてくるので、この日はカッパを着ずに傘をさすだけだった。

全く、登り口になって雨が降りだした。長い本堂までの階段、値打ちのあるお詣りである。
(寺の様子省略)

興隆寺を下山し、次の寺に向かう間違えて別の方向に暫く進んでしまった。
それでも納経(帳面に朱印墨書もらう)に間に合った。別格11番生木地蔵を参拝した。

寺の境内に商店街と書いてあったので、それを頼りに雨の中を買い出しに向かった。
確かに商店街を示す街灯は続いているのだが、なかなか商店が見えない。
1キロ位は歩きやっと店があらわれた。スーパーがあった。開いてはいなかったが銭湯もあった。開いている食堂を見つけた。
上がり間口に荷物を下ろし、何となく冷たい視線と感じながら腰を下ろした。食堂としているが夜は飲み屋になるようだった。
カウンターにはゴルフコンペ帰りの男たちが酒を飲み哄笑していた。

私は700円の唐揚げ定食を頼んだ。
私が食べていると店の女性が、これ荷物にならないでしょうからとあめ玉を袋に入れてくださった。
会計の段になって、先程の女性の母君らしい人が出てきて遍路の話をした。
今日は何処に泊まるのと聞くので、丹原公園の東屋と答える。遠いじゃない。来るときに見えたもんで。

お寿司もって行きなさい、ちらしといなりどっちが良い。
とお稲荷さんをもらった。さらに空に成っていたペットボトルにお茶を詰めてくれた。
私は非常に恐縮して、今回始めて私の納め札を差し上げた。
最後に私は甘えて、捨てられなくて持ち歩いていたゴミを捨ててくれるようにたのんで渡した。

その後、私は時々激しくなる雨の中、2キロ程戻り公園の東屋にテントを張って寝た。

その晩、別口の大量の差し入れもあったが、それは言及しないでおく。
とにかく今日は接待を受けることが多く、遍路している有り難さ感じた一日であった。
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# by henroseikatu | 2010-04-08 22:34 | 四国遍路09年

歩いて四国遍路5 大和川の下高野橋わたって四天王寺へ 2010年3月29日 

歩いて四国遍路5 大和川の下高野橋わたって四天王寺へ 2010年3月29日

国道309から、下高野街道街道へもどる。
西除川左岸の遊歩道を北上。天美あたりのやっと上下二車線の道幅に昔の街道の名残りかと思う。
大和川の河川敷でシートを敷いて昼寝、インターネット喫茶ではネットしていて、ほとんど寝れなかったのだ。

大和川に架かる橋を渡る。「下高野橋」だ、この名前が街道にちなんで付いていることを始めて自覚した。
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長居公園のそばを通る、現在の街区を左に斜めに横断するように頻繁に左折右折する。

下高野街道として別の道筋もあったが、私は武藤さんが進める庚申街道の道で四天王寺まで行くことにした。
近鉄阿部野橋駅東改札口は地下にあるけれど、その南側の出口は松崎口であり、
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その地上出口そばに「庚申街道碑」がある。この碑に書いてあるが庚申街道を顕彰するために、
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北側の地下出口を庚申口としたとあった。

庚申堂を通って四天王寺に行った。


3月26日から29日の四日間で高野山から大阪・西成の自宅まであるいた。
しばらくの雨がやみ、和歌山北部晴れという予報で出発日にした。
山の上は吹雪で、しさしぶりの寒さ・・・

四日間、    km(あとで調べる) 159261歩 であるいたことになる。
今度はここから四国へ行くつもりです。
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# by henroseikatu | 2010-04-01 15:48 | 歩いて四国へ10年

歩いて四国遍路4 河内長野へて松原で泊 2010年3月28日

昨晩泊まったところから少し行くと美加の台へでる。車道は立派な片道二車線になり、もちろん歩道完備、昨晩の歩道もない道と大違い、そして周囲は高いビルの宅地に占められている。

高野山女人堂へ八里塚の里程標

 京の都と仏教の聖地高野山を結ぶ高野街道は、平安時代の皇族、公家や、中世から盛んになる武士、庶民の高野山参詣に利用されました。f0222943_041504.jpg
 中世以降は、高野山参詣をする人の往来が特に多くなり、江戸時代には、一般庶民の社寺詣でも盛んになりました。そして、それらの旅人の利便性から、街道筋には多くの常夜灯や道標、里程石が建てられました。
 道標や里程石には、角柱に加工したものや自然石、お地蔵さんの形をしたものなどいろいろな形がありますが、ここから南へ500mほど行った新高野橋の北側の袂にある里程石は、頭の先のとがった30cm角の角柱で、高さが178cmもあります。江戸時代、安政4(1857)年に建てられたこの里程石の一面には、「西是ヨリ高野山女人堂江八里」と彫られています。
 このような里程石は、堺市榎元町にある「十三里」をはじめ、高野山神谷にある「一里」まで、ほぼ一里ごとの建てられており、13本のすべてがが現存されております。なお、市域には、この「八里」のほかにも、「九里」が古野町に、「七里が天見に残されたいます。
      河内長野市  歴史街道
                    [三日市町駅前(南海高野線)にあった案内板]

三日市町駅から下高野街道を四天王寺にたどると。国道をこし高台になっている上田町に周辺の遺蹟の案内板がある。
上田町文化財・社寺等の歴史案内
二、上田胸切地蔵の由来
江戸時代初期に泉州堺のある資産家の娘が紀州橋本にある富豪の息子と婚約がととのい、吉日を選び花嫁が駕籠にのり、花嫁道具を多くの人夫にかつがせ、西高野街道と通り上田のこの急勾配の坂にさしかかった時、南の方から一人の男が息を切らせて駆けつけ、「私は橋本の婚礼先から参ったものですが、今朝花婿になる息子さんがどうゆうわけがあったのか、伝家の宝刀で自殺を遂げたの事をお伝えに使いとして参った」とのこと。一行は一旦堺に引き返す事になった。
その時駕籠の中よりただならぬ叫び声が聞こえ、駕籠の戸を開けて見ると、花嫁は着飾った晴れ着は鮮血に染まり、親元より用意の短刀を逆手に持ってわが胸を突切っており、手当の施しようもなく、絶えいる息の下より「我が家を出るときに、女と生まれ一旦他家へ嫁いだ以上決して実家には帰れないと常々両親から教えられ、自分にも深く心に誓っていた。それに今生涯の夫と定めた人が死んでしまった、かくなるうえは生きて実家には返れませぬ」
といい残してこの坂道で亡くなったという。上田村民はこの花嫁の霊を慰めるために相談し、この坂道に石地蔵を建てて祀りし、胸切地蔵として供養した。
又この坂を胸切坂とよぶようになった。この胸切地蔵は急勾配の坂の下り口の西側にお□りされていたが現在は少し上の交差点に移されお祀されています。

三、高野街道「堂の辻地蔵」
堂の辻地蔵は元々高野街道三日市宿の入り口で街道に面した増福寺の境内で堂の辻(高野街道往還筋)に在った地蔵で高野詣の人々の道中安全を祈願して建てられたもので、この地蔵尊と共に「南無大師遍照金剛」と刻まれた石塔があり、真言密教の弘法大師の御加護により道中安全に高野詣が出来るように祈願したものと考えます。又初瀬(はせ)寺からの高野山への供養塔(観音石像)も建てられています。尚、この地蔵尊他石塔の上には木格子に囲まれた三日市宿内上田駅の高札場が設けられ、堺及び紀伊見峠を結ぶ馬継ぎ宿駅の賃金札及びお定め書きが江戸時代まで掲げられていた。明治に入り石地蔵及び石塔のみこの場所に移され、小字名を「井の上」と呼ぶので通称「井の上地蔵」とも後に呼ばれています。

五、上田のふたつの森
江戸時代の古文書(上田村明細帳)に奈良時代(天平年中)の上田に大きな森が二ヶ所が在ったと書かれている。一つは三日市幼稚園及び敬老院の周辺一帯は「雨山(あまやま)の森」と呼んでいた。
天平年中この地域一帯に日照りが続き、百姓は水が無くなり米等穀物の苗が枯れ困難を極めていたが、その時一人の偉いお坊さん「行基」が通りかかり、住民の苦しみを見かねこの場所で雨乞いをしてくださった。おかげで空はにわかに曇り雨が降ってきて田畑は息を吹き返し、又池には水がたまり田に水を入れることが出来た。村人はこの場所を「雨山の森」と呼ぶようになった。
もう一つは上田の東側一帯の河川岸を「金の森」と呼んでいた。天平年中この地域を開拓していたとき土に混じって金が出てきたという、「きっとここに産土(うぶずな)神が存在されるのだ」と、この森を「金の森」と呼ぶようになり、後になってこの森に金吹(かねふく)稲荷大明神と福丸(ふくまる)稲荷大明神をお祭りしたという。
昭和になって現在の稲荷大明神がお祭りされている場所にニ体が合□されています。

一、増福寺四、上田金比羅宮六、高野街道三日市宿内上田駅「高札場跡」以上は省略

平成十八年三月吉日 河内長野教育委員会 上田町会



三日市町駅前も河内長野駅前にも高野街道の案内板があり、「ツールド大阪」との道標で近辺の歩行が案内されている。
河内長野駅近くの街道にあった灯籠と駅前石碑   f0222943_0415038.jpgf0222943_0415093.jpg


河内長野駅のアーケードから北北西に真っ直ぐにある道は細く自動車も通らない、昔の街道を思わせる。今は自転車が盛んに通っている。





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狭山へ入る手前で地元の人と話す。私が高野街道を歩いていると言うと、「今はそんな人はいないね、昔は南海でハイキングを募集していた」と言われる。

ずっと町をぬうように細い町内の道を行く。北余部で食事すると、もう外は暗くなっていた。もう街道を探しながら進むのは無理なので、大きな道を進むことにした。
2km程東に進み、国道309号線を北進する。松原市に入り国道沿いにあるインターネット喫茶に入り、シャワーを浴びる。
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# by henroseikatu | 2010-03-29 00:41 | 歩いて四国へ10年

歩いて四国遍路へ3 紀の川わたり紀見峠はトンネルで・2010年3月27日

歩いて四国遍路へ3 紀ノ川わたり紀見峠トンネルこし 2010年3月27日
朝起きるとテントの片面には霜がついている。昨晩は雨が降らなくて良かったがテントは霜で重たくなっている。
昨日テント張った場所は大門、矢立から来る国道と極楽橋との合流地点だった。
川沿いに国道を下って行く。
昨日の極楽橋よりの下りではほとんど通らなかったが、高野山からの自動車も通る、国道370線は、盛んに自動車が連なる時もあった。

川の向こうの住宅が建たない尾根の高い位置を南海高野線が通っている。電車が通過するごとにキーーときしんだ音がする。ずっと国道沿いを下ってきた、車道沿いに民家が密集しだし高野下駅に着く、ここから国道は大きく左に曲がる。
高野下駅から遊歩道に入る。

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その遊歩道の九度山駅近くで太い倒木が道をふさいでいた。チェンソーで既に根っこ側を切断してあり、下をくぐると、もしかのことがあると困るからと言い、木を跨いで越した。
久度山駅から国道に戻り東行する。

道路標識に大きく河内長野と書かれていたので、そこから左に道を曲がり紀ノ川を渡った。橋を渡ってからおかしいと思い、上流の橋に向かい進んだ。
それで「左京大阪道 右かうや」の道標もみつかり高野街道にもどった。
(後から検討してみると、高野街道のコースはもう一つ先の橋を渡り、橋本市街に入っている。)
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橋本市街にこんなに大きい高野街道があった。この橋の上はJR線の電車が通っている。




二枚目写真の国道から、少し先の左の路地に以下のようなエピソードのある不動尊があり大切に奉られていた。
寺脇不動明王地蔵尊f0222943_23553660.jpg
二百年前に、当地出身者の観蓮という僧侶が四国を遍路中買い取った不動明王を当地に送りましたがどうゆう訳か地蔵尊も共に送られてきたそうです。不動明王と地蔵尊が一緒にまつられているお堂です。[東屋三丁8]

ニ体とも小さな堂に鎮座している。高さ1m20cm程の板に浮き出ていて、地蔵さんの背景は彩色され、不動明王は全体に彩色されている。200年たっているようには見えない。周囲は近隣の人に良く整備されている。
ところが、裏道だと思ったこの通りはやがて行き止まりとなり、さっきの車道に戻るはめになった。


橋本、御幸辻付近に五里石(是ヨリ高野山女人堂江五里)その案内板が以下
●橋本市指定文化財(第22号)
旧高野街道 高野山五里道標石 昭和56年8月28日指定
 高野山へ向かう街道で最も古く、多くの人々に利用されたのが東高野街道である。この街道は京都から、八幡、枚方を経て、生駒山西麓を南下し、河内長野から紀見峠を越え、町石道から高野山に至るもので、その成立は平安時代後期にまで遡るといわれている。その後、堺からの西高野街道、平野(大阪)からの中高野街道がひらかれ、河内長野で、これらが合わさって高野山に登ることができるようになった。なかでも西高野街道は近世に大いに栄え、今も堺の大小路橋を起点に高野山女人堂までの里程が記され、高野参詣の人々はこれを見るたびに1里ずつ近づく高野に思いを馳せたことであろう。これらはいずれも幕末の安政4年(1857)□□木村(くみきむら大阪狭山市)の小左ヱ門と五兵衛の発願によって13基建立され、すべてが現有する。

この道標石は、元々約300メートル南に建てられていたが、国道の建設により現在地に移設された。橋本市にはこのほか紀見峠に六里道標石、東家に四里道標石、学文路に三里道標石が残され、高野参詣の歴史の一端を今日に伝えている。
    平成16年3月 橋本市教育委員会 橋谷区


紀見峠への登り口を探しながら進んだが全く分からず、峠下を貫く紀見トンネルの入り口になる。気温9.9度の表示がある。そのままトンネルを通過、トンネルをでると気温は8度になっていた。曇りの夕方4時になっている。

千早口駅手前で廃線跡遊歩道にはいる。そういえばここまで河の対岸の高い位置にずっと直線的に道が(街灯があた)続いていた。
駅前で食料を買い、しばらく歩くとレストラン8000番という廃業したドライブインがあり、そこでテントを張って泊まることにした。
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# by henroseikatu | 2010-03-28 23:55 | 歩いて四国へ10年

歩いて四国遍路へ2 高野山弘法大師に挨拶し2010年3月26日

和歌山北部の天気予報は晴れマークだったので、少しでも荷物を減らすためカッパを置いてきた。
南海高野線で橋本を過ぎた頃には雨が降りだした。
極楽橋からケーブルに乗る時には雪が吹雪いた。
バスで奥の院入り口まで行く。参道を歩いて行くと、太陽が出て一時暖かくなったが、雪がまた降りだした。
この日、夕方ちかくまで雪が降ったりやんだりの天候だった。

一枚目の写真f0222943_8133917.jpg
奥の院の建物の裏に弘法大師御廟がある、今も大師はここに居て・・・写真撮影禁止のところであるが、大師様に誰もいない時を見はらかって頼んで、あわてて撮った写真です。

御廟を参拝してから高野三山に登る。
この高野山周囲の尾根の山道は女人道と言う。江戸時代、高野山が女人禁制の時、女性たちは高野山に思いながら歩いたそうである。

二枚目の写真
f0222943_8133933.jpg摩尼山1004mの登頂証拠写真、まあハイキングコースなんだけれど、一時雪が吹雪いた時は、遭難凍死も考え・・・

今晩は高野山のどこかで野宿して、高野山を味わおうと思っていたが、雪がも降るこの寒さ・・・
女人堂まで歩き下山することにした。
山道を下りケーブルカーの駅がある極楽橋に着いた。

そこから橋本方面へ私の持っている地図のコース表示は川の左岸沿いだった。ところが左岸の道は通行禁止になっていた。
反対の道は川から離れ山への登り坂だ。どこか他へ行きそうだ。
ままよ、バリケードをすり抜け川ぞいを下った。

三枚目の写真f0222943_8133998.jpg
その道の途中で一ヶ所、崖が崩れ土砂と岩が道をふさいでいた。

結局、この道使わなくても右岸側からも通行できた。
でも、歩きなら距離も短いし、自動車は通らないし、私のお薦めは左岸だ。

夜中に起きたら寝れない、寒くて、足先が寒くて。
それで携帯でこの文章を書き込んでいる。

まだ明るいうち、空き地に放置されているトラックの荷台を見つけた。左右に羽のように開く荷台で、その片方が閉まったまま残っている。床は板張りだ。
その荷台の上にテントを張った。
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# by henroseikatu | 2010-03-27 08:13 | 歩いて四国へ10年

裏みちぞい物語

裏みちぞい物語
四国遍路みちぞい物語の中に載せなかった傑作な言葉●ここは公衆トイレではありません。
お寺のトイレです。
一人一人が責任をもって
きれいに使用して下さい。
         十夜ヶ橋 永徳寺

ありがとうの心
[43-44 2003年]

●イラク侵攻並あらゆる戦争暴力犠牲者各霊
涅槃満ち足りたおだやかな心
慈悲思いやるか悲しむか利他行
歌かき作ろう句を連ね平和を祈ろう心と世界に
[51- 石手寺 2003年]

31-32へんなおじさんに注意
 最近、南国市内に痴漢や露出狂などの変出者が出ています。
 みんなが気をつけてへんなおじさんや若い人に出会ったらすぐ連絡してね。
   南国市少年補導センター

         TEL 63-4201
23-24●捨てるんですか●
捨てるんですか
その犬を、その猫を・・・
捨てられたその犬や猫は、
これからどうしたらいいのですか?
   動物を捨てると法律により処罰されます。
      高知県・保健所

●ごろごろ浜 水もころころ 山から海へ     山頭火

●世界は平凡か?
 未来は退屈か?
 現実は適当か?
   安心しろ

 それでも
   生きることは
   劇的だ!
      (少年ジャンプ「めだかボックス」より)
[土佐清水 浄土宗蓮光寺]
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# by henroseikatu | 2010-03-25 17:39

歩いて四国遍路へ1 高野山から歩き出し 2010年3月25日

歩いて四国遍路へ1 高野山から歩き出し 2010年3月25日

 始めは歩いて行くつもりだったけれど友達も行くというので、電車で行って自宅まで歩くことにした。
 最初は荷物をしょって試しに高野山まで歩き、帰りは電車に乗ろうと思っていた。しかし考えてみれば高野山から歩き始めた方が、四国遍路に行くのには好都合だ。今回は歩いて四国に渡る計画を練っていたので、どうせなら高野山の奥の院の参拝からずっと歩いて四国に行くことにできる。

 それで高野街道を調べていると、大阪市中央図書館で委細に踏破した記録があった。
◎歴史の道調査報告書 第二集 高野街道 大阪府教育委員会
 ※2万5千分の1の地図が付いている。ただし府内のみ。
◎高野街道を歩く 武藤善一郎
 ※道標も一つづつ手書きされた地図、高野山へのわき道も網羅。
 恐れ入りました。道標や地蔵の一つ一つを記録してあり、私達が往年の街道を思いながら歩くことができることがありがたい。
 平安時代に京都の天皇・公家を中心に高野詣でが盛んになった。のちには武士・庶民にまで広がった。
 高野街道とは京都方面から生駒山系西麓を高野山へ至る道で京街道とも呼ばれ、明治以降は東高野街道と呼ぶようになった。
 東高野街道と共に古くから良く使われた道が堺市が起点の西高野街道です。四天王寺、住吉神社をへて、堺へ入ったようです。この道は河内長野で東高野街道と合流して高野山へ至ります。
 四天王寺から真南に向かい西除川ぞいの道を下高野街道と言います。河内長野の手前で西高野街道と合流します。
 前も一度大阪から高野山へ歩いて行ったことがある。その時は市販のガイドブックの粗い地図をたどり下高野街道という意識はなかった。今回は十分意識しながら、道標など見つけながら下高野街道を歩くぞ・・・

●雨が続いた、明日は晴れるというので、明日の早朝、電車で高野山に行くことにする。 
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# by henroseikatu | 2010-03-25 15:52 | 歩いて四国へ10年

四国みちぞい物語

四国遍路みちぞい物語   歩かなければ見れない石碑、案内板より

いまあかす四国遍路の秘密
ついにあきらかになる四国遍路の真実

札所めぐりだけでは知れないこと
四国の大地を足で踏みつけ
四国の大地に寝ころんで

辺路を歩いてこそわかること

そこにはお大師の足跡とともに
在野民衆の生活と民衆英雄の姿が浮かび上がる
辺路には為政者の姿はなかなか残ってはいない

そのうち本に出来たらとも思っていたけれど
  まあ無理そうですし
私の四国遍路 公開します

以下のブログにて公開中
四国遍路みちぞい物語
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# by henroseikatu | 2010-03-18 22:02 | 四国遍路みちぞい物語

四国遍路みちぞい物語 目次

四国遍路みちぞい物語
目次 
              
3-4●岩田ツヤ子の碑●[畑の中の遍路道]
6- ●〝徒歩巡拝友の会の歩み〟●
7-8●三木武夫メモリアルパーク●[土成町中央公園周辺案内図]7-8●●[]
10-11●この上に天明義民弥五石門墓●[]
11-12●天然記念物 左右内の一本杉●[]12-13●杖杉庵縁起●[杖杉庵じょうしんあん]
17-18●弘法大師 お杖の水●[]
17-18●史跡旗山●[]日本一の義経騎馬像
23- ●紀州接待講の接待を受ける●[23番薬王寺]
23-24●即身成佛法海上人堂●[]
23-24●佛海庵●
23-24●英霊に奉げる和讃●[佛海庵内]
23-24●椎名の捕鯨山見跡●[]
23-24●室戸青年大師像●[]
24-25●中岡慎太郎銅像●[]
24-25●海洋深層水●[キラメッセ室戸くじら館]
- ●六地蔵尊●[]
26-27●神峯のみち●[四国のみち 案内板]
26-27●手やり石●[]
27- ●神峯山・空と海の展望公園●[]
26-27●神峯のみち●[四国のみち 案内板]
27- ●神峯神社の大樟●[]
27- ●神峯神社本殿●[]
27-28●食わず貝 唐浜化石●[]
27-28●ごめん・なはり線●[]
28- ●大日寺奥の院 爪彫り薬師●[]
35-36●安政地震・津波の碑●[]
36-37●土佐往還「そえみみず」●[]
- ●お雪椿●[]お雪椿(ヤブツバキ)高岡郡窪川町影野
37-38●四万十川、自然に生きる●[四万十大橋のたもと]
37-38●今大師の由来●[伊豆田トンネル前 バス停大師前]
37-38●潮害防備保安林●[大岐浜車道からの進入口]
38-39●足摺臼碆(うすばえ)彼岸の神秘的夕日●[中浜、清水港経由 足摺岬字大戸]
38-39●ウィリアム・ホイットフィールド船長殿●[中の浜]
38-39●十一面観世音菩薩●[叶崎休憩所]
38-39●小才角(こさいつの)●[]
38-39●月山神社●[]
38-39●歴史の人材の里 宿毛●[]
39-40●戸たてずの楠●[歓喜光寺の近く] 40-41●美しきみしょうトッポ話〝九郎おじやん空をとぶ〟●
40-41●美しきみしょうトッポ話〝トッポーこき〟●[]
40-41●柳水(やなぎみず)●[清水大師、柳水大師の道]
40-41●接待松(別称ねぜり松)●[清水大師、柳水大師の道]
40-41●女兵(おんなひょう)さん思案の石●[清水大師、柳水大師の道]
40-41●狸の尾曲がり●[]
40-41●鼻欠けオウマの墓●[]
40-41●クメヒチ屋敷 由来●[]
40-41●へんろ椿●[清水大師さき]
40-41●除災招福大観音之由来●[番外6番龍光院境内墓地 宇和島]
41-42●中山池●[四国の道ぞい]
42-43●島岩記念竹園●[宇和島高等学校]
42-43●杉原千畝 生誕百周年記念樹●[宇和島高等学校]
42-43●古代信仰の広がり●[愛知県歴史文化博物館]
42-43●茶堂●[愛知県歴史文化博物館]
42-43●弘法大師伝説●[愛知県歴史文化博物館]
42-43●真念●[愛知県歴史文化博物館]
42-43●四国遍路の●[愛知県歴史文化博物館]
42-43●衛門三郎(えもんさぶろう)伝説●[愛知県歴史文化博物館]
42-43●四国遍路の発生●[愛知県歴史文化博物館]
43- ●源光山明石寺(43番札所)●[]
43-44●二宮敬作翁 碑文の解説●[43番から下り道、博物館への遊歩道]
43-44●日天月天様●[鳥坂峠越え、遍路道]
43-44●四国霊場十夜ヶ橋●[番外8番永徳寺境内]
43-44●弘法大師御旅所●[番外8番永徳寺十夜ヶ橋下]
43-44?●へんろ道の歌●[44番大宝寺ちかくでた石丸さんにこの歌を教えてもらった。]
44-45●古岩屋不動尊復元縁起●[遍路道沿い]
44-45●八丁坂●[遍路道沿い]
44-45●八丁坂の茶店跡●[尾根との出合い]
45- ●お詣り御苦労さまです●[45番岩屋寺納経所で配布の文書]
45-46●仰西渠●[国道33号に沿って東側、仰西バス停が近い]
45-46●郷土をひらく久万の用水路●
45-46●久万街道●[三坂峠を北に下る遍路道]
45-46●(立寄所)弘法大師の網掛け石●[三坂峠を北に下る車道沿い]
45-46●弘法大師の網掛け石●[三坂峠を北に下り車道沿い]
51- ●弘法大師御尊像●[51番石手寺裏山頂上]
53-54●五右衛門堂ごえもんどう●[]
54- ●越智孫兵衛墓●[54番延命寺山門近く]
54-55●越智孫兵衛通勝翁 越智熊太郎三渓翁 顕彰碑●[54から
58-59●五郎兵衛坂●[58仙遊寺から59国分寺へ向い下り遍路道]
59-60●桜井石風呂●[遍路道からそれ海岸沿い]
59-60●四国遍路にて●[光明寺掲示板より「光明寺だより」]
59-60●御来迎所 文化十四年●[八幡神社すぐ上]
59-60●横峰寺御来光出現●[八幡神社すぐ上]
64- ●「托鉢」と「乞食」の違い●[64番前神寺掲示板]
64-65●若連中建立の遍路石●[11号バイバス沿い、戸川公園てまえ]
64-65●へんろ道とみちしるべ●[若連中建立の遍路石ちかく]
65- ●三角寺、三角の護摩檀●
66-67●鰻淵(おうなぎさん)の伝説●[]
67- ●銭形のいわれ●[67,68の裏山]
67- ●「弓張月」いわれ●[67,68の裏山]
70-71●題 救世義民大西権兵衛辞世之句碑●[本山寺から弥谷寺への車道西側]
70-71●七義民二百年大祭記念碑●[本山寺から弥谷寺への車道西側]
72- ●笠松大師●[曼荼羅寺納経所脇]
75-76●松崎渋右衛門辞世の歌碑●[満濃池湖畔、番外11番そば]
75-76●松波長谷川翁功徳之碑●[満濃池湖畔、番外11番そば]
78-79●旅に良薬あり!●[JRやそば駅から79への上り道沿い]
80-81●衛磨大師●[81番白峰寺登り道、高屋神社入口向い]
83- ●薬師如来縁起●[83番一ノ宮寺境内]
83-84●水を求めて●[香川歴史博物館]
85-86●海女の玉取り伝説●[JR志度駅]
86 ●海女の墓●[寺境内墓地]
86-87●京都中井氏の道標●[鴨部川にかかる長尾橋ちかく]
87-88●手洗鉢の由来●[川原の庵 宝政寺]
87-88●遍路の歴史●[へんろ資料館展示物より]
87-88●今なぜへんろ?●[へんろ資料館展示物より]
87-88●接待●[へんろ資料館展示物より]
87-88●遍路(細川憲哉句集)●[へんろ資料館展示物より]
87-88●猟師の話●[女体山への遍路道]
87-88●太郎兵衛の話●[女体山への遍路道]
88-10●地名と大師のゆらい●[犬塚大師堂]

◎この記録は私が2001年から03年までの二回の結願でノートに書いていたものを中心にしていです。それを後で入力し今回初めてブログに公開します。
 「へんろみち保存協会」の地図で順打ちで歩いたときに、出会える順番を基本に、石碑や案内板の文章を記録しています。

●題の前の数字は札所間を示しています。11-12は11番札所と12番札所への遍路道間にある、石碑案内板を示します。また11- の表示は11番札所境内、山門前、または後背の山など、次の札所への道ではない場所を表します。必ずしも遍路道順に項目の記載がなされていないかも知れません。
●□は判読されない文字や表示できない文字です。
 なるべき元の字体を表示するようにしましたが、旧字、略字などを表示できる字体で表示しています。
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# by henroseikatu | 2010-03-18 21:59 | 四国遍路みちぞい物語

西国徒歩巡礼 区切うち

2003年から09年にかけて7回に分けて西国三十三ヶ寺を巡拝した。 


 初回は一番青岸渡寺から順打ちで廻り始め、二番紀三井寺まで歩いた。そこまでで一回目は終わりで大阪の自宅まで帰った。
 2003年に歩き始めたが、その後はなかなか行けなくなり、2008年5月からは一月おきに巡拝をしだし、2009年5月に33番華厳寺まで歩き結願した。

 とぎれ途切れの記録だけれども、見て下さい。
 一回目は一番下です。↓
http://henroseika.exblog.jp/13034544/
西国巡拝1回目

ここから入って「前のページ」をクリックすれば順番に見れます。

西国三十三ヶ所徒歩巡拝
 2003年4月29日から2009年5月5日 7回の区切り打ち

1回目 03年4月9日~5月7日 1青岸渡寺~2紀三井寺
2回目 05年3月20日~21日 3粉河寺~4施福寺
3回目 08年5月      5葛井寺~9興福寺
4回目 08年7月23日~19日 10三室寺~19行願寺
5回目 08年9月21日~25日 20善峯寺~番外花山院
十二柱神社 狛犬
西国巡礼であった飛び出し君
6回目 08年10月14日~27日 25播州清水寺~30竹生島宝厳寺
7回目 09年5月1日~5日 31長命寺~33華厳寺
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# by henroseikatu | 2010-03-07 23:14 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち7回目-2

■西国徒歩巡礼 区切うち7回目-2■
7回目 2009年5月1日~5日
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西国三十三ヵ所徒歩巡礼七回目
2009年5月5日


昨晩は、食事したスーパーの側の河川敷の公園の橋桁の下にテントを張った。疲れていて、足のテーピングテープもはがさず、横になったら直ぐに寝入った。

今朝、地図を見ると、どうも今日中に最後の寺に着けそうなので、どんどん先に歩く。
地図を見て確認しながら歩く。今回の行程は、ほとんど宅地のある場所を通った。店屋がない。今日、気がついたのは缶コーヒの自動販売機が見当たらなかった。

西国三十三ヵ所の最後のお寺、谷汲山華厳寺 たにぐみさんけごんじに着く。さすが33番、人手が違う、31番32番は境内で数えられる程の人数しか出合わなかった。
結願の寺と宣伝しているが、それだけではないはずだ。観光地として来ている人も多いだろう。
通りから山門まで長い、かなり急な坂だ。だが店やが連なりあきなくて、坂のことは忘れていた。。お土産屋や、食べ物屋だけではない。菊花石などの珍しい石か゛売っていたり、仏像を売っている。なにやらフリーマーケット適な店もある。


本堂に上がる。椅子に座って、ペットボトルのお茶を飲む。汗がひき、落ち着いてから、身支度を整える。
白衣をはおり輪袈裟(わげさ)をする。線香や経本等入れた頭陀袋を肩にかける。

奥くには本尊の前に畳の間があり、私もそこで読経したかったけど、お布施あげて坊さんに読経してもらっているようなのでね遠慮した。
一般の人は賽銭箱の前からお参りする。
持参したろうそくと線香を供える。このお寺では、ろうそくの世話係が終始ついていて、燃えかすの始末をしていた。
ひっきりなしに人が来るので正面に立ち続けることもできない。そこで賽銭箱から斜に離れた場所から本尊に向かって観音経をあげる。私が経をあげている間、とくに人が多く来て、立ち止まっている私は迷惑な存在に成っていた。

満願の時の感動を想像していたけれど、覚めきっていた。
参道を歩いている時から、宗教的雰囲気は削がれた。観光地という感じである。
汗をかきながら急な坂を登りきり、やっと目指すお寺に着く。すがすがしく誇らしくなる。そんな事はなかった結願のお寺でした。

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「おいずる堂」には満願した人々のおいずるや金剛杖が奉納されているが、納経帳まで奉納されていた。
ゆっくりと参道をくだり「満願の湯」にのんびりと入った。
そうしていたら、すでにバスの便がなくなっており、旧谷汲駅の構内で寝ることになった。
2001年に廃線になった名鉄谷汲線の車両を、この駅で静態保存しているのだ。
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# by henroseikatu | 2010-03-07 22:52 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち7回目-1

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■西国徒歩巡礼 区切うち7回目-1■
7回目 2008年10月14日~27日
span style="line-height: 1.2;">2009年5月1日
電車で近江八幡まで行きバスで長命寺前まで行きました。
売店の前を進むと直ぐに参道の階段がある。しばらく登りるとT字路になっており、右手からの道にNPO西国古道の小さな道標があり、右に曲がるように矢印があった。私はそこで右に曲がったが、その道は麓へ行く道であった。つまり、下山の道を示したようだ。小さい道標で巡礼してきた人にしか分からないだろうが間違いやすい道標である。
この石畳の808段あると言う階段はこゴツゴツと段差があり、土が流され石が浮いているところがあり歩きずらかった。

尾根沿いの狭い境内は大きな岩石が露出し、琵琶湖の眺めもよかった。私が一番感動したのが、ひわだぶきの屋根の連なりだった。

31番長命寺を参拝してから、巡礼の道をそれ近江八幡の市街に入った。
お気に入りの<ボーダレス・アートミュージアムNO-MA>の展示を見た。
携帯電話の充電切れる
2009年5月2日

昨晩は次の32番観音正寺のある、きぬがさ山の取っ掛かりにある桑実寺の山門前でテントを張った。安土駅から住宅街で適当なテント張る場所がなく、ここまで来てしまった。

ほんらい桑実寺の境内を通るのが西国の道だが、この寺は入山料を払いなさいと書き、夜間は山門のひさしの下に入るだけでブザーが鳴る。今は朝5時、山門を入ればブザーが鳴り響く。
仕方なく麓の「木の道しるべ」まで戻り「観音正寺方面林道」を進む。

・・・・・・・・・・・・・・・・


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http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b35.08.27.34&lon=%2b136.09.46.18&fm=
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なめ憲2号の道端から見える平和物件No.003



                 平和祈願釈迦如来像

江戸時代からあったが、戦争の時の金属供出で潰された。
そこで1983年に平和を願って造られた像だそうです。
・・・とガイドブックに書いてあったが、現地では何の説明書もなかった。再建の思いは何だったんだろうか?


前大戦の時に 御国のために戦ってこい、死ねば極楽に行ける と言っていたのが仏教界だ。

願ったり祈祷しただけでは平和はやって来ないのはもちろんで。

ハッキリ 不殺生 兵が無用 戦争反対 と思うだけではなく、声を荒げ 行動していかなければならぬ。



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2009年5月3日

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三日目
関ヶ原に入った。できたら今晩これから歩き古戦場で野宿したい。
昨晩は旧道を外れ国道に行き食事し、思いがけずインターネット喫茶があった。免許証があるので会員登録して入った。で充電して、切れる不安は無くなったのでした。

今日は彦根から米原を旧中山道なかせんどう沿って、宿場町を見て歩きました。

すっかり暗くなりました。もう少し歩かないければ、・・・

2009年5月4日

四日目
昨晩は暗いなか歩き続けて関ヶ原の戦場までたどり着いた。東首塚の小さな堂の縁側に寝袋で寝た。
戦場を見てまわり、歴史民俗博物館て時をすごした。

また中山道をたどる。旧道と言っても住宅街だ。旧道が途切れ国道を歩き、また旧道に入ったりする。
関ヶ原町から垂井町そして大垣市にいたる。
赤坂宿で中山道から分かれ北の方向に進む。ほどなく大垣市から池田町に入るる。
スーパーで半額の弁当を買って夕食にした。午後9時18分、これから国道沿うって歩き適当な場所があればテントを張るつもりだ。
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# by henroseikatu | 2010-03-07 22:26 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち6回目-5

■西国徒歩巡礼 区切うち6回目-5■
6回目 2008年10月14日~27日
西国三十三ヶ所徒歩巡礼六回目⑤

●10日目(10月23日)
予報どうり朝から雨、チェックアウトの10時少し前にホテルを出る。傘はなくて駆け足で近くのスーパー等の入るビルに行く。そのスーパーの海の見えるデッキで「働き人のいいぶん」の原稿を書いた。(後で速達で送った)昼飯を食べて、傘を買った。歩きだすと雨は小降りとなり、やがて雨はあがった。
歩行距離約18km 舞鶴市八田 由良川大川橋 桁下泊

●11日目(10月24日)
長寿観音、安産観音

四所駅で「天橋立を世界遺産に!!」の電車を見る。

イカのおすし
  しらないひとにこえをかけられたら
いかない
 のらない
おおごえをあげる
 すぐににげる
しらせる
  余内子育て支援協議会

松尾寺から次の道に行くのに大変迷いながら、結局地図のとうり進んでいたけれど不安をかかえながら歩いた。
歩行距離約25km 29番松尾寺参拝 高浜町三松 車庫泊

●12日目(10月25日)
JR若狭和田駅ピースフル和田 赤い瓦
平成16年度電源立地地域対策交付金施設

若狭西街道小浜へ四里半 東舞鶴へ五里 線路を挟んで山側をあるく。

ELGAIA OHI エルガイアおおい
新感覚の映像体験を可能にした世界最大級のバーチャルシアター

「心やすらぐ美食の郷 御食国(みけつくに)若狭おばま」という看板、道路添いにあり。
歩行距離約36km 上中町市場 野球場泊

●13日目(10月26日)
松木長操生誕地
松木長操(庄左衛門)は寛永二年(1625年)正月二十五日松木家三代目として当新道区に誕生。
江戸時代の初め、領主京極氏が小浜城の移築に際しその経費捻出に大豆年貢の苞制を加増、誅求した。
若狭農民ひとしく塗炭の苦しみにあいこの窮状を救うため若冠十六歳にして嘆願九年、更に投獄数年ついに磔刑によつて三十八歳の生涯を閉じた。
この義挙によって悲願の年貢は、旧制に復され以来若狭の農民はもとよりこのことを知る人々は長操を義民とたたえ神と仰いで今日に至っている。
(生家はここから約300米の山麓にあります 。)[鯖街道、熊川宿にあった石碑]

歩行距離約22km 滋賀県今津町 近江今津駅 そばホテルカイト泊

●14日目(10月27日)
朝一番の船で竹生島に行き、宝厳寺参拝
その後、また今津に引き返し、そこから電車で大阪に帰った。

歩行距離何百メートルか、航行は距離に含めないということで本日は歩行距離なし 30番宝厳寺参拝
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# by henroseikatu | 2010-03-07 22:22 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち6回目-4

■西国徒歩巡礼 区切うち6回目-4■
6回目 2008年10月14日~27日
ブログへの記載が中断したままになっていました。区切り打ち最後、満願の巡礼にいくことに成って、思い出しながら前回の巡礼の報告をいたします。
西国三十三ヶ所徒歩巡礼の区切り打ち六回目は去年(08年)の10月14日に福地山線相野駅より歩きはじめ、西国25番から打ちました。そして10月27日に琵琶湖に浮かぶ30番まで打ち電車で大阪に帰ったのでした。

西国三十三ヶ所徒歩巡礼六回目④

●8日目(10月21日)
朝早く、神社に参拝する人がいるかもしれず。暗いうちから起きだした。道先に登尾トンネルが現われた。地図ではトンネルなどないのだが、その疑問を深く考えずにトンネルを抜けた。
峠を越してから、地図では国道を横切り、山に登っていくことになっている。ところがその登り口が分からない。「西国を廻っているのですが」と地元の人に相談すると。Aの方向に行けば良いといわれその方向に進んだが地図と見比べ、納得がいかず。国道沿いに行こうと反対方向に進んだ。そうするとさっきあった地元の人に自宅前であった。そこでまた話していて、古道の地図ではなく、別の道路地図を見ると、私の通った登尾トンネルが記載されてあり。私が道を間違ったことがはっきりした。古道の地図をじっくり見れば現在居る場所が目的の場所と別の場所であることがわかった。やっと納得して言われた通りAの方向に歩いていった。

兵庫県から京都府福知山市に入る。自動車の通らない野原や小さな坂を越える。
雲原というところで喫茶店にはいる。本日の定食カキフライとあったが、なんかカキは食べたくなかったので。じっくりメニューを見てビーフカレーを頼んだ。時間かかって出てきたカレーの味はよく知っているレトルトパックの味がした。
国道176線を北上すると、やがて本来の巡礼 の道にもどった。国道のトンネルの上を歩いて与謝峠を越す。下っていくとお助け水があり、このあたり見事なすすきの原が続いた。やがて国道に出会うと天橋立方面の道路標識があった。国道が尾根から尾根へ高い橋脚で結ばれ、大きく左右、左カーブを続けている。それの下を貫くように歩いていく。

地蔵さんの隣で荷物を下ろして休んでいると、軽トラックに乗ったおっちゃんに声をかけられた。
私も西国を少し回っている。仕事があるからなかなか廻れないけど。和歌山の方は全然廻ってないな。春とか秋には徒歩で廻っている人も見かけるよ。などと話をしてくれた。
暗くなった。でも店屋がない、加悦町あたりでスーパーを見つけ弁当を買って近くの農協の入り口に座って食べた。それからあてもなく暗い道を行く、野田川町あたりは古い街並みがのこっている。
そろそろ寝たくなったが、周囲は住宅地野営する場所はない。それで道をそれ十字路を右に入った。するとそこには家がなく野原のような闇があった。その闇の中にほのかな光が見えた。そこは公衆便所であった。
そこは自転車道ステーションと呼び、自転車道の休憩所である。トイレの壁とベンチの間、上には屋根があるところにテントを張った。障害者トイレで顔を洗い、体を洗った。
歩行距離約20km 野田川町下山田自転車スティーション泊

●9日目(10月22日)
暗い間に起き上がった。テントを片付け即席ラーメンを食べた。夜明け前に自転車道を歩いている人が何人も通る。
巡礼の道に戻らず、このまま自転車道を進むことにする。畑の中を行く、夜が明けきると、靄がかかり一時は一面乳白色になる。
北近畿タンゴ鉄道の野田川駅の近くになると思うが(自転車道から駅も見えた。)蓮池がありアヒルなどがガアガア鳴いていた。蓮の写真や蓮で作った作品があり無人販売もしていた。

やがて野田川沿いに進み河口の橋を渡り、岩滝町の市街を経て、巡礼の道に戻る。
この野田川沿いの加悦岩滝自転車道線は畑の中を行ったり、河の土手を歩き、町中を歩く巡礼のよりゆっくり歩けます。
左折していよいよ成相寺の登りにかかる。そこに広場があり、ちょうどその日はその広場を多くの人々が草刈りをしていた。その広場は丹後国分寺跡とのこと。前には博物館がある。畑のなかに石碑が立っていた。15年戦争の時に船舶往来のために天橋立を切断するのに反対した町長を顕彰してた「天橋立の久の碑」がある。
暇そうな、訪れる人も少ない京都府丹後郷土資料館という博物館に入る。入り口で掃除をしていた女性が窓口に入り入場券を売り、そのまま館内の説明をしてくれる。私がしょっている荷物を館内に置かせてもらった。展示の細目は忘れているが、そこでもらった古い企画展のパンフレットが残っている。今回の巡礼で27番圓教寺でみた木造の狛犬に、石造しか見ていなかったのでビックリした。しかしこのパンフレットには丹後の木造狛犬が多く掲載してあった。
舗装道を登って行く、めずらしくカンナが道脇に植えられている。途中、お大師さんや地蔵清水があり、お土産なども売っている場所があった。

成相寺の境内に入る。自動車で来た人のチエック所があり、私も進んで自己申告して入山参拝料(500円)を払った。
かって湯槽だったという鋳物の手水鉢は龍の姿の注ぎ口で外周に苔がはえている。
本堂のそばに駐車場があり、山道を長いこと上ることはない。階段を使わなくてもスロープを使えば本堂の前まで来ることができる。ところがそこから本堂に上がるのには階段しかない。そこでこのお寺には地面から本堂の床まで上がれるエレベーターが設置されていた。

下山はバス専用道路を通ってケーブルの駅がある笠松公園まで行く。展望所で天橋立を展望する。そこより少し低い所に別の展望所がある。ケーブルの上りの終点らしい、ガイドさんが団体に説明をしている。下の展望所の賑わいに比べ、こちらは最初は私一人だけだった。その内、何人かこちらまで上がってきた。
展望所にはお金を入れて見る望遠鏡があり、股のぞきのために乗る足場ある。私も頭を股間につけて天に昇る橋立を見た。
そしてその場所に一軒のお土産屋さんがあった。まだ昼飯を食べていなかったので、そこのソフトクリーム(300円か350円)を買って、暇そうに一人いる男の店員と世話話をした。そこで今晩ビジネスホテルに泊まりたい、と話すと、その店員が電話帳で調べてくれて適当なビジネスホテルの電話番号をメモしてくれた。
笠松公園から徒歩で下山しながら携帯で電話をしてホテルの予約をとった。

下山したふもとに篭神社がある。神社の参道の重文狛犬は毛布などまかれ周囲を鉄パイプで囲まれ人目から逃れていた。
重文狛犬(阿吽一対)伝 鎌倉時代作
伝承によると、作者の一心で魂の入った狛犬が、天正年中不意に天橋立の松林に出現して、元伊勢詣りの参拝者や通行人を驚かした。偶々親の仇討ちにひそんでいた岩見重太郎が之れを聞いて鎮霊を決意し、一夜待ち構えて音の方向に剛刀を一閃したところ、石の狛犬の前脚が切れて出現が止んだと云う。以来社前に 座して専制ら魔除の霊験が聞こえたと伝えられる。
他所と違い、胴と脚がどっしりして、日本化された狛犬の最大傑作と云われる。

橋立の松はその姿を模して名前をつけたり、人の名をつけた名板が設置されている。ちなみに「晶子の松」には橋立を読んだ与謝野晶子にちなみ命名された松と書かれてあった。
磯清水両側海に囲まれながら塩からくない清水が湧き出ることから名泉百選にも選ばれている。私も少し口に含んだがその後きずくと「飲まないで下さい」との看板があった。

歩行距離約20km 28番成相寺参拝 宮津市新浜 ホテル丹後泊
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# by henroseikatu | 2010-03-07 22:19 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち6回目-3

■西国徒歩巡礼 区切うち6回目-3■
6回目 2008年10月14日~27日
西国三十三ヶ所
徒歩巡礼六回目③
c0099020_8193553.jpg                      市川町


●4日目(10月17日)
テントたたんで坂を上る。直ぐに尾根にとりつくが、その先は樹木が生い茂り、道がなくなっている。ここまでの道は幅が広いと思ったが、伐採するために道を作っていたのだ。この一面の斜面は全ての樹木が伐採され搬出されている。落とされた枝葉だけが残されていた。
来た道を戻り野営地をさらに下る。この明るい斜面を降りると。向かいに森が広がり、左側から登ってきた道があった。その地点を見回すと森のなかに西国古道の道標があった。木の間にある幅20cmもない道標だから夜間に見つけるのは難しい。しかもその森の入り口には人の背丈程の枯れ草が林立ている。今、遠目に見れば森の間に山道が通っているのが分かるのだが、夜間にはこの方向に道があるのはとうてい分からない。やっぱり夜間の山道は迷いやすい。

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その森を越し夢前町から福崎町になる。山道を下り終わると、ため池があらわれる。ため池にはほとんど水が貯まっていない、また春に向けて貯めるのだろうか。
「ため池は農業用の貴重な水源です。農家の人々は苦労してため池を守っています。◎ゴミは持ち帰りましょう。◎ルアー、釣り糸など捨てないようにしましょう草刈り機にまきつき危険です。」こんな看板の他、不法投棄禁止の看板がいくつも出ていた。

昨晩からの山越えは、西から東へ移動した。これからは北に向けて進むことになる。JR播但線、国道312号そして高速道路の播但連 絡道路と隣接しながら北上する。
播但線鶴居駅近くの市川の水辺で即席ラーメンを作り昼食とする。

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# by henroseikatu | 2010-03-07 22:12 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち6回目-2

■西国徒歩巡礼 区切うち6回目-2■
6回目 2008年10月14日~27日
西国三十三ヶ所
徒歩巡礼六回目②


●3日目(10月16日)
昨晩は街灯で明るい露天の駐車場にテントを張って寝た。朝露でテントが濡れた。暗いなか歩き始めた。
[間違いやすい道]自衛隊姫路駐屯地と弁天池の間を西行しているところで、街路樹のある駐屯地北側の道を真っすぐ進と間違いである。交差点から100m程大通りを西行すると右側に鋭角に細い道がある。その弁天池の堤の下を通る道を進む。(地図P95、地図は29番 松尾寺発行の「西国三十三所古道徒歩巡礼地図」のこと)

c0099020_2123186.jpg書写山を拝む夢前川の手前のコンビニで、焚きたてのご飯を入れてくれる弁当を買う。大盛りにしますかと聞くので、思わず大盛りにした。ちょっと食べ過ぎた。
c0099020_213460.jpg車道から灯篭の所で露地に入り、まもなく東坂山道になる。地元の人により詳しい道案内表示がしてある。急坂で岩石が露出している。雨が降れば靴が滑る気がするが、今日は晴れ上がって気持ちが良い。c0099020_2141350.jpg
ロープウェーの山上駅から直ぐに圓教寺の境内に入る志納所があり、300円払う。そこから塔頭(たっちゅ う、坊さんが住んだりする小さな建物、庵など)のある場所までは長い登り坂になっている。地道だが転圧されているようで多くの人が通るのを想定して整備されている。麓から志納所の距離より長いようだ。ロープウェーを使った人も相当歩くことになる。
志納所の所にマイクロバスがあり、摩尼殿(本堂)近くまで行くというので、最初はロープウェーで金使わせ、ここからバス代使わすのか?商売しているなぁと思った。しかしこの長い坂道、お年寄りはバスなしでは参拝はできないだろうと思った。
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山の中に塔頭、伽藍(お寺の主要な建物のこと)が配置され、山道で行き来する。本堂である摩尼殿は京都清水寺のように崖からせり出した舞台造りである。梁や柱、硬く残っている木目が歴史を感じさせられる。
また別のところに三之堂と呼ばれ大きな広場を囲む室町時代の3つの建物がある。c0099020_2151364.jpgc0099020_2154014.jpgその一つの食堂に宝物を展示してあった。500円な ら入らないと思っていたら、200円だったの で入った。珍しくおもったのは寄木造りの狛犬。注目したのは、明治の廃仏毀釈のときに隠され守られた仏像たちだ。どれも風化にまかされたのか像の形はかすかにしか見えない。木目の硬いところだけ残されている。受け付けをしていた男の人が世話をやき話をしてくれた。「開山堂の三角を守っているのは鬼ではなく力士で褌をしめている」と言って褌が見えるポイントを教えてくれた。c0099020_2161264.jpg
[下山の道]摩尼殿下のはづき茶屋(ここでアイスを買ったら百円ぽっきりで売ってくれた定価販売か、有難い貴重である。)と放生池の前を通りバス道の方にいく、バス道と反対方向に山道が二つある。(ここに道標あり)二つの山道の右側を行くと下山の置塩坂である。

下山して畑の畔道でテントを干し、しばらく休憩した。ハイキングの格好した男の人たちが来て「この道はあの山の麓にいけますか」ときくので地元の者ではないので分かりませんと答えた。c0099020_21714100.jpgその人たちはそのまま畑の方に進んでいった。しばらくして、その仲間らしい女性も交じる一団が来て、こっちからいけるのかしらなどというから、私は地図を良く見つめると、畔道は川にそって迂回する道になっていて、車道を通る方が距離的には近いので。私はそのことを教えた。
そこから少し歩くと大型のスーパーがあった。この先しばらく大きな町がないのでここで買い出しすることにした。今晩食べる弁当と袋ラーメンを買った。
すでに暗くなっている夢前町古知之庄(地図P97)から川を渡ると高台になっている。こ の地点で地図では車道沿いに行くことになっているが、この切り通しは短い距離だが夜間車の通行が多く歩くのは危険で、車道の西側の筋の住宅地の中を通る道を行って欲しい。
出来るだけ先に行こうと暗い中を歩く。本道をはずれ山越えの道に入る。やがて工場があらわれた。だが看板を見ていると牛を飼っているらしい。感染の予防のために外と完全に隔離しているようだ。

やがて古道の表示が現われる。そこから山道が始まっている。私は地図見て林道みたいに舗装された道があるものだとばかり思っていた。その林道で峠を夜通しで越えようと思っていた。始めから登山道を夜間に登るつもりはなかった。夜間の登山道は脇道やけもの道に入る可能性がある。それでも戻っても寝る場所はなく、しかたなく前進した。
LEDライトを手で押しなながら発電し光を照らす。左は山が迫り林になっていて、右は少し低くなり草が生えている。その草の中でゴソゴソと何かが音をだしている。前方道をを横切る。猪だろうか。山側に動くものがありライトで照らすと鹿のお尻が闇に消えていく。
別れ道でどちらか迷った。ライトを照らし周囲を見回すと林の中に「西国古道」の道標があり、そのまま林にそって真直ぐ進んだ。
やがて道は右側へ上っていく、その先は樹木が伐採されていた。道は太くなっていて伐採され残された枝が固められていた。
しばらく登ると広くカーブして入る場所があった。前の森、後の尾根が見える。登ってきた道が見える。目の前には残された枝が積まれているのがハッキリと見える。満月が尾根の上に昇っている。高圧送電線の鉄塔がそびえている。まるでハリウッド映画の夜の表現みたいに。昼間と同じように風景が広がる。鹿の鳴声が響いていく。
すっかり落ち着いて、夜通し歩くつもりでもあったけれど、この先寝れる場所があるかも知れず。ここにテントを張って寝ることにした。その晩、テントの中から月を見ながら寝た。c0099020_21271930.jpg

27番圓教寺参拝 歩行距離約22km

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# by henroseikatu | 2010-03-07 22:06 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち6回目-1

■西国徒歩巡礼 区切うち6回目-1■
6回目 2008年10月14日~27日
西国三十三ヶ所
徒歩巡礼六回目①

 2008年10月14日から10月27日
 25番播州清水寺から30番琵琶湖竹生島宝厳寺まで


西国三十三ヶ所観音霊場を徒歩で巡礼している。西国三十三ヶ所は近畿一円約1000kmの霊場を巡っている。ある区間歩いては一度電車で自宅に帰り、また次の機会に電車で戻り歩き続ける、区切り打ちという方法で巡礼している。(*打ち=寺院を参拝すること)
2004年から一番からお参りを始めた。和歌山紀伊勝浦、那智の滝の青岸渡寺から二番和歌山市、紀三井寺まで歩いた。05年に三番、四番を参拝した。それ以来巡礼に行っていなかった。
今年08年6月から区切り打ちで、月に一回巡礼を続けている。先月は20番から24番まで、さらに番外の花山院まで参拝した。そして福知山線の相野駅(兵庫県三田市)から帰宅した。

●1日目(10月14日)c0099020_19131639.jpg
荷作りにてまどって出発が一日のびると、久しぶりの雨。6時40分頃、新今宮駅を出発。大阪駅から福地山線へ快速に乗らず普通に乗ったまま、方向が逆でラッシュの電車でなくて良かった。相野駅で降りる。学生が多く改札から出るのに時間がかかった。
カッパのズボンだけはいて傘をさして歩きだす。前回の巡礼では一日目に大雨にあって、おおじょうしたが、今回の雨は傘で防げる雨であった。しばらく歩くと小降りなり、暑くなったのでカッパのズボンは脱いで傘だけさした。車道から一本奥の車があまり通らない道を行く。道沿いに住宅もあるが、その奥は畑になっている。地蔵さんや花の写真を撮った。せいたかあわだち草の群れが黄色く勢いがあった。c0099020_19175076.jpg
やがて舞鶴自動車道の下をくぐると、直ぐに「ようこそ丹波立杭焼の里今田町へ」という道を跨ぐアーチがある。その先の分岐を左側に行く。

25番清水寺の山道に入る。舗装された道路は山門前まで続く。ここから地道の登山道がある。入山料を取るという看板があったが。「ここに自動車を駐車して、歩いて登る人からは入山料は取りません」と書いてあった。いい事だ、一律に徒歩の人からも取る寺が多い。
ほとんど雨は上がったが、c0099020_19181053.jpg雲はたちこめたままだ。登山道は石があって私の靴は良くすべった。境内に入ると石畳の階段などに落葉が美しく写真をいっぱい撮った。接写でとったが後で確認するとピンボケが多かった。

清水寺の大講堂には靴を脱いであがる。内陣へ入るのには百円程のお布施が必要と書いてあった。百円ポッキリ入れ内陣に入った。畳み張りの内陣へ入る。本尊は明るい照明(文化財保護のため通常明るい照明を当てることはない、しかし輝く像には手を合わせたくなる、御利益ありそうだ)で黄金色に輝く1、2m程の座位の千手観世音菩薩であった。ここで座って観音経を唱えた。c0099020_19185866.jpg
大講堂内にある納経所(墨書朱印をもらったりする所。納経とは書経をお寺に納め供養してもらう事、それが転じお寺の墨書朱印をもらう事。)には頭を反りあげたお坊さんだけがいた。通常は坊さんではない長髪のおっちゃんが多い。
清水寺と称されるのは寺を開山した法道仙人が祈って霊泉が涌出したことからだそうで、そのこん浄水と呼ばれる湧水が今も湧いていた。c0099020_19193893.jpg
歩きの登山道からは山門を通らないので、山門を見にいく。駐車場に隣接して朱に鮮やかな山門であった。山門の近くにある清水茶屋は閉店していたが自販機のコーヒーは120円 で売っていて感激した。150円位するところ もある。山上ということでプレミアムを付けているところが多い。
下山の道は土が土が軟らかく石が多く混じり私の靴は滑り気味で恐かった。草が生え放題で倒木があるところが一ヶ所あった。道が雨水の水路になっている所もあった。浮き石もあり駈け下りるには危険だ。夕暮には道を間違える可能性もある。c0099020_192048.jpg
その山道を下りきる。舗装された村の道にでる。「こっちに下りて来たんですね」といきなり犬を連れた女性に声をかけられた。「えっどこかでお会いしましたか」「山門の所で車に乗りませんかと声をかけようとしたのですが、歩いて巡礼しているなら・・躊躇していました。」そういえば山門で写真を撮っているときに軽のワンボックスカーが私を見ていた。山を下りたとたんあうとはとても奇遇であった。カメラのシャッターを押してもらった。
c0099020_19204442.jpg

雨は上がり雲がとれてきた。村の道から国道沿いを歩く。加東市社(ヤシロ)町で国道から脇 道を歩く、すっかり暗くなっている。今回は歩きながらとても余裕がある。c0099020_19211645.jpgテント持参で寝る場所のことを考えることが少ないし、コンロ持参で食物の心配も少ない。国道にあったコンビニで弁当を買って夕食とした。それからすこし歩き。国道沿いの閉店した自動車屋にテントを張った。だだっ広い駐車場と平屋の家はガラス張りで備品など何も無く空き家だ。寝る前に向かいの24時間営業のマクドナルドの百円マックを食べながら今日の日記を書いた。
25番播州清水寺参拝 歩行距離およそ21km

●2日目(10月15日)
c0099020_20155224.jpgテントをたたみ4時頃出発、国道372号を歩 く街灯のない所が多い片道一車線の上下二車線だがほとんど車は通らない、バイパスがあるのだろうか。夜が明けてくるとモヤが立ちこめる。
第三セクターの北条鉄道の駅、法華口駅による。単線で架線がない小さい駅舎の待合室の中に自転車が停められている。各駅にボランティアの駅長がいて催しをやっている。この駅では付近に太平洋戦争時代に、飛行場があって特攻機の訓練をしていたそうで、その歴史を掘り起こす新聞記事を掲示していた。

c0099020_20164412.jpgc0099020_20172136.jpg26番一乗寺に着く。入り口で拝観料を払う。いきなり長い上り階段が続くが、私は東屋で休憩し身仕度をととのえた。輪袈裟を首にかけ、数珠や経本を入れるさんや袋をザックから出した。
c0099020_20174734.jpg金堂(本堂)の天井には古い木製の納め札がびっしりと打ち付けられていた。(現在の納め札は紙製です。)また金堂内の壁に墨で字が書かれてあった。落書だろうか?納経所で聞いたが「当時は普通の人は文字が書けなかった・・・」というだけで要領を得なかった。
c0099020_20185039.jpg奥の院開山堂の脇を上ると、沢沿いに無数に石が重ねられ、その上方の岩盤の下に地蔵さんが並べられていた。

加古川市から姫路市に入り、しばらく山陽自動車道沿いに進む、天川沿いの自転車道を歩いていく。その自転車道沿いに苔の清水という湧水があり、そこでペットボトルに水を入れた。またそばの高台に苔の地蔵さんがある。この地蔵さんは乳が出ないとか、多過ぎて困る婦人に霊験があり、かっては参詣者が絶えなかったそうだ。また欠けた地蔵さんは武士がけさがけに切り付けたそうで、その逸話が残されている。c0099020_20192246.jpg

市川を渡りJR播但線を横断し姫路の市街地に入る。インターネット喫茶を探し当てたが、そこは会員制で私は身分証明がなくて入れなかった。吉野屋で牛丼を食べた。それからインターネット喫茶を探しながら姫路駅付近まで歩いた。結局フリーで入れる所がなくてインターネット喫茶で「働き人のいい分」に原稿を送るのをあきらめた。駅前の街路樹のある大通りの歩道に寝ようとする女性の野宿者がいた。それから姫路駅から電車で播但線野里まで戻り、巡礼の道に戻ることにした。この電車は二両編成のワンマンで先頭の前の扉からしか下りられないと放送があった。のだが、今日は連絡している電車が遅れていて混雑が見込まれるので、全ての扉を開けるので切符は駅備え付けの箱に投函してくれとのことでした。満員の車内で最前部まで行かなくても良くて良かった。
駅で下り、地図を便りに街中を歩く、住宅地の中に空き地を見つた。姫路競馬場の臨時駐車場だ。その奥まった木陰にテントを張って寝た。
26番一乗寺参拝 歩行距離やく38km

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# by henroseikatu | 2010-03-07 22:03 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち6回目

■西国徒歩巡礼 区切うち6回目■
6回目 2008年10月14日~27日
西国三十三ヶ所徒歩巡礼 区切り打ち 六回目
10月14日から10月27日まで14日間
25番札所播州清水寺から 琵琶湖の竹生島30番宝厳寺まで参拝しました。
歩行距離およそ330キロメートル

委細 これから書き込みます。c0099020_23471454.jpg














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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:55 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち5回目

■西国徒歩巡礼 区切うち5回目■
5回目 2008年9月21日~25日
西国三十三ヶ所徒歩巡礼
区切り打ち 五回目(20番から番外花山院)c0099020_913620.jpg


●9月21日 月曜日から台風が去るのを待っていたら、のろまな台風がやっと関西を通過したのが土曜日であった。さっそく日曜の朝、出発した。前回終えた阪急京都線東向日駅から歩きだす。市街地から出る前に道を間違えた、感で方向を決めて、また道が分からなくなった。とても時間をつぶした。後から考えると「大きな道を横断する」とだけ地図を見て思い込んでいて直進してしまった。現実には歩いていた道が鋭角に道と交差し左に曲がったことになった。
迷っているうちにポチポチと降っていた雨が激しくなり、そのうちバケツをひっくり返す様な勢いの雨になる。農家の納屋で雨宿りする。少し雨の勢いがなくなったので私は合羽を着て傘をさしながら来た道を戻った。道が分からなくなった時は分かる所までもどる事が肝心である。
激しい降雨はやがて止んだが、この日幾度か軽く雨が降った。天気予報どうりだ「近畿中部、曇り所により雨」の予報だった。こんなに激しいとは思っていなかったけれど。
ようやく巡礼道にもどる。(地図の道に南側に平行に善峰道と呼ぶ府道があり私はその道に進んでいた。その道は竹薮を通っていた、やがて善峰寺へ行くのだろう)田圃では稲刈され脱穀された藁が山型に組まれ並んでいた。そして畦は彼岸花の赤に染められていた。まだ稲刈されず黄金の穂がたわわに実った田圃もあった。
c0099020_9104511.jpg鋪装された上り坂を歩いて、11時半に西国20番札所善峯寺に着く。「遊龍の松」という全長50メートルまで水平に枝を伸ばされた天然記念物の五葉松がある。入山料払ったからちゃんと見た。庭園は手入れが行き届いている。しかしこの季節ではが目立った花は咲いていなかった。
釈迦堂そばの北門を抜けると東海道自然歩道につながる。地図(*)とは違うが北門を抜けると三鈷寺を通過し左折すると、上り坂になり地図の自然歩道につながる。後は道なりでT字路につきあたる。そこでで左に折れる。(道標には右矢印で金蔵寺と表示)
次の寺も今日中に参るつもりでいた。5時までには着かなくてはならない。しかし道端に停めてある乗用車の中のカップルに遠慮するあまり、じゅっくり地図を見られず、道を間違えてしまった。今日中に次の寺に着くのをあきらめた。それでコースを外れ亀岡市街地の方に向かった。c0099020_91348100.jpgその高台で「曙台九条の会」の看板があり、憲法九条の内容が書かれてあった。スーパーでトイレを使い、靴下を脱いで足を休め、濡れていた衣服を乾かした。そこで一服した後、国道添いで食堂に入った。
その後、倒産したガソリンスタンドのフェンスをのりこえた。軒下のコンクリートの上にシートを敷き薄手の寝袋に入って寝た。横になったころからまた一時、激しく雨が振り出した。
◎1日目 京都向日町から亀岡市街 20番善峰寺参拝 約27キロ歩行


●9月22日 3時頃起きだした。寺に向かうのには早すぎたので亀岡駅の方に歩きだす。駅のベンチに座って足の手入れをした。水虫の薬を塗り、メンデングテープを貼った。駅は最近新しくなったらしい。ベンチがあるのでここで寝れたかもしれない。駅の北側には広大なコスモス畑が広がっていた。それからお寺に向けて歩きだした。途中コンビにでパンと新聞を買いコスモス畑で朝食とした。
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西国21番札所穴太寺は農地広がる平地のお寺で狭い境内だった。入山料などは取らなかった。(20番善峯寺は500円取られた。)しかし 本堂拝観料300円それに庭園も見れば500円払わなくてはならない。本堂拝観は8時半からだというので、時間を待ち、本堂のみ拝観する。薄暗くなっている畳敷きの本堂にはいる。左側から本堂に入り御本尊の右奥の涅槃像を見にいく。暗くて見えないと思っていたら、パッと照明が明々と点いた。人が接近したので照明が点いたらしい。親しみのもてる木造の小振りの仏さんでした。無料だと誰も彼も涅槃像にさわり過ぎて・・・。締めきられた本堂の中で座込み、ゆったりとした気分で観音経を読むことができた。こんな形の有料は在りかと思った。
寄り道になるが、山門からちょっと西に行くと南に延びる「近畿自然歩道(犬飼川の流域 を訪ねるみち)」があった。田圃の中を通る 自動車のほとんど通らない道であったが方向が違ってきたので地図の道に戻った。道標がなくて不安になりながら道なりに進む。c0099020_8462167.jpg桜峠の表示は見付けられなかったが「まつたけ山 に付入山禁止」と紐をはったりフェンスをは っているところが桜峠だろう。その先の学校近くの東掛交差点の越すと食料品店を見つけ、ここで昼飯の買い出しをした。京都府亀岡市から大阪府茨木市に入る。忍頂寺あたりから「キリスタン自然歩道」の道標に従い右側の林沿を歩く。「愛と光の家」前を下り直ぐ右に曲がり坂を登りきる、そこで道標にしたがい左にまがる(このあたり地図では良く分からない、キリスタン自然歩道の道標で大岩を目指すと良い)
私は山手台で崖の下を真っすぐ進行してしまい道を間違えた。たぶんバス停のあるところから宅地のある坂上に登って行かなければならないのである。
計算では夕方に寺の参拝をするはずだったが今日も道を迷い夕闇になっていた。それで茨木駅を目指して行くことにする。明日の寺は駅から近いのだ。中央公園に行くと公園で野宿するらしい人達がいた。ある人はカセットコンロで料理をしていた。電話帳で銭湯を探した、その傍にコインランドリーがあり、風呂に入り洗濯した。12時過ぎに市街を歩き回ったがなかなか寝る場所がない。阪急の茨木市駅の近くのビル地下のエントランスで寝た。
◎2日目 亀岡市街から茨木市駅付近 21番穴太寺参拝 約35キロ歩行


●9月23日c0099020_8475286.jpg 街中を少し歩きお寺についた。階段を上がったとこに「水鉢前にお進み下さい蓮の葉より水がでます」とかかれ黄金の葉から手水が流れた。西国22番札所総持寺は良く植木が手入れされていた。縁起に亀が関わっているので池を見ると、錦鯉がうじゃうじゃしていて中型の亀が申し訳程度にいた。カッコつけずに亀だけうじゃうじゃしとけば良いのにと思った。納経所で、歩きですかと聞かれた。

西国街道説明
西国街道は、古代から京都と西国を結ぶ重要路であり、江戸時代には幕府が直接管理する五街道(東海道・中仙道・日光道中・奥州道中・甲州道中)に接続する脇街道ですが、参勤制度によって多くの西国大名が大阪と京をさけて、江戸への往来に利用した街道です。文化四年(1807年)に完成した「五街道其他分間見取延絵図」によると、京から西国への道は、伏見から分かれて、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮の各宿を経て、中国道に続くまでを「山崎道」とし、これがいわゆる「西国街道」です。茨木市内をほぼ東西に走るこの街道は、高槻市土室帳町から茨木市高田町に入って西進し、摂州郡山宿本陣(椿本陣)の前を通って、西豊川町から竿箕面市小野原へと通じています。茨木市教育委員会【路肩にあった説明板より】

国道171線を渡り椿本陣跡を通り、国道の南 側を東に進む、モノレールの豊川駅を過ぎるとやがて箕面市に入る。c0099020_8485919.jpg勝尾寺大鳥居(普通の大きさの鳥居だった。)より北上すれば表参道になる。国道添いに食堂が並んでいて王将で昼食をとった。車道を登って行くとやがて畑の中を経て山道にになる。
この畑が途切れる地点に以下の看板があった。
「お願い 害獣(イノシシ他)による農作物の被害に困り、この度当参道に金網扉を設置致しました。開閉の際は必ず戸締りの御協力をお願い致します 栗生外院実行組合」
【今回の行程で、この登りだけが土の道であった。東海道自然歩道であったり林道もあったが、いずれも車が通ることを想定しておりコンクリートあるいはアスファルトで舗装されていた。】
最後の丸太階段を下ると道路を挟んで西国23番札所勝尾寺の休息所で入山券を買う。山門をくぐると池にかかる道になる。その橋のしたから霞がたなびくようになっていて、こってるなと思った。境内要所に5、6センチ程の達磨が限りなく置かれていた。植栽の根元や壁の上にも達磨が幾つも並べられていた。木造でひび割れているものもあった。京都清水寺のように一方通行になっていて、どうも整備されすぎ気分がのらない、団体や行楽客も多く、私はまともに参拝しなかった。その昔紅葉の時期にハイキングコースから来たときはもっと居心地が良く思えたのに。
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箕面大滝でしばらく休憩する。観光客が多い水場で子供たちが遊び、家族ずれがシートの上でくつろいでいる。餌つけを止めて猿を自然に帰すための監視員がいた。そういえば今日は祭日秋分の日であった。滝から麓まで歩き、箕面温泉へいくエレベーターの前で1時間ほど仮眠した。それから街灯がほとんどない暗やみのなか、ザックの後に赤いライトを点滅させ首に白い点滅ライトを下げ巡礼道を歩いた。西行して池田市に入る。猪名川を渡ると大阪から兵庫県の川西市に入る。この橋は昔、順礼橋と呼ばれたらしい。川西側の堰堤にそって高速の橋脚が立っていて、その下が公園に成っていた。私は街灯が照らさない橋脚の足元のコンクリートの上に寝た。
◎3日目 茨木市駅付近から川西市呉服橋 22番総持寺23番勝尾寺参拝 約29キロ歩行


c0099020_8525720.jpg●9月24日 国道176号を西行くする。札所 の開く時間までは十分あるので福地山線川西池田駅でコンビにで買った新聞を読み、パンで食事する。まだ5時前で閉まったシャッターの前で二名の男の人が始発を待っていた。JR線沿いに歩いていくと、右手山側を走る阪急線からJR線を跨ぐ高架がある。その先に阪急の車庫がある。その高架をくぐると直ぐ左に公園があった。そこには便所と水道ベンチもあった。私はそこで靴を脱ぎ靴下も脱いで休憩した。そこから少し先で右に折れ阪急宝塚線の踏み切りを渡り西行する。このあたり「巡礼街道」(およそ高さ1m20cm 幅40cm)という道標があった。中山駅から北行 してすぐ山門がある。山門に仁王があるが、反対側門の内側から山門を見ると木造の狛犬が鎮座している。山門をくぐると道の両側に塔頭が並びそれぞれが得意な願意をかかげ参拝者に訴えかけていた。そこから本堂まで敷地の高さが二段になっていて、階段とともにエスカレーターとエレベーターがある。JRのエスカレーターと違うよ、上り下り二車線あるのだ。本堂など橙色をめいんに極彩色に模様を染め、飾り金具が黄金に輝いており美しい。
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納経する人は少なく塔婆を書いてもらう人が並んでいた。金をかけている所が違うと思った。エレベーター等に金を使っていることが参拝者が集まる要因の一つになっているのではないのか。そういえば境内の何箇所かでライブ映像をインターネットで流していて、記念撮影をすすめていた。参拝者を集める努力をせずに入山料や駐車料金を取っているだけのように見えるお寺もある。このお寺は営業努力をしている様子がうかがえる。
巡礼街道は阪急宝塚線の北側を西行く。この道は古くからの道らしく、別名、有馬街道、京伏見街道、西宮街道と呼ばれている。宝塚市から西宮市に入ると道は国道176号線を縫 いながら進む。東六甲ゴルフ場過ぎて中国自動車の下を横断して直ぐに右に曲がらなければならなかったのだが、私はそこで直進してしまい北六甲台の団地を回りこみだいぶ遠回りした。
国道176号線沿いに北行し三田市街に入る。 銭湯があればと思っていたが見つけださなかった。JR三田駅の南側の歩道橋上の広場で佇んでいた。5、6人の若い男女が騒ぎたてていた。カップルが何組かいた。まだ夜が更けず街が寝ない、駅周辺での野宿をあきらめる。明日行く番外花山院の方向に歩き途中の城山運動公園を目指すことにする。公園は坂を上りきり、そこからさらに高台に上った所だ。街灯もなく暗やみのなか上りきると、グランドが広がり、その奥に野球場があった。野球場のグランドへの入口がスタンド外壁より引っ込んでいたので、その晩そこで寝た。
◎4日目 川西市呉服橋から三田市城山運動公園 24番中山寺参拝 約30キロ歩行


●9月25日 夜が明ける前、暗がりのグランドをジョッキングしている人がいる。
友が丘団地の給水槽の上にカラスが一羽とまっている。カラスは飛び立つ。右側にゴルフ場がある。やがて道が右にカーブした所にコンビニがあり、そこでカップラーメンなどを食べる。そのカーブを曲がらず真っすぐ細い道に入って行く。途中、トイレがないかと有馬富士への道へ入る。このあたりは古墳がある。
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有馬富士東麓古墳郡 この周辺は、三田市内でもたくさんの古墳があるところです。この古墳群は約1400年前(古墳時代後期)の9基の円墳が集まっており、内部に遺体をおさめる横穴式石室と呼ばれるへやがあります。これらの古墳はこの地域を治めていた人々の墓であろうと考えられます。この貴重な郷土の遺産を永く後世に伝えたいものです。

整備された舗装道が続くがトイレはなかった。(実は木陰で野屎をした。)頂上へ行く登 山道があらわれたが、元気なくて、裾野をまいて車道にもどった。
花山院は小高い山の上、急なコンクリートの舗装の道が続く。私が境内につくと、山道で追い越されたバスの乗客達がいた。老人クラブの人たちだそうで住職がお寺の説明をしていたので、私は参拝の身繕いしながら聞き入っていた。老人クラブの団体が移動したのをみはらかってお参りした。
本尊は薬師如来というので「観音経」よむかどうかまよっていたけど本堂の他に「西国巡礼 本堂 花山法皇殿」としてあった。そこに十 一面観音、花山法皇、弘法大師の像が鎮座しているのだ。そこでお参りした。そこに幾つかの一枚刷りの紙が置いてあり、巡礼の方はお読み下さいと但し書きしてある紙があった。その紙は「巡礼者への法話」とし『納経』とは朱印と墨書をすることではなく(現在は 納経帖に御朱印を集めることが目的になっている。)写経をお寺に納めことです。また『 おいずる』は朱印を集め葬儀の時に着せるものではなく満願の時にお寺に納めるものである。としていた。
お経を唱えることを納経と解釈した話を聞いたこともあり、私は写経を納めずにきた。納経帖が集印帳のようになっていることもいなめない。四国の遍路では本堂前に置いてあるお定まりの「納経」という箱に詰め込まれていて気づかなかった。しかしこの写経をお寺が供養することにこそ納経料の意味があることを確認した。そういえば勝尾寺でも納経所で納めるようになっていた。
麓におり湖の方に少し進と、建物の上に黄金の布袋さんなのか裸で大きなお腹をだした像があった。その像は巨大で遠くから良く目立った。生皇山弥勒寺というお寺で道から見える塔頭の中も華やかに像が並んでいた。
千丈寺湖の南側のコースをとった。水道水のための人造湖で、二つに別れている北側は自然にまかせ釣りなどは許されていないが、南側はエンジンなしのボートと釣りは許されている。湖畔は整備され小さな公園が幾つもあった。ただし火の使用は禁止となっている。
今日も二つ目のお寺にお参りできなかった。花山院でゆったりしすぎて、寺間20キロが歩けなかった。どうせ5時までつけないと途中で芝の上で寝ていた。JR福知山線の広野駅を通過線路の南側を西行する。今日の寝る所は決まっていないし、ここからなら大阪駅まで直接帰えれるしなどと考えているうちに、またコンクリートの上で寝たくないと弱気、里心が出てきた。今回せめて27番圓教寺(約70キロ)まで行きたいと思っていたのだが・・・。そんなこと考えて線路にそつて歩いていた。結局、次の駅、相野から電車に乗り5回目の巡礼を終えた。c0099020_8561120.jpg

◎5日目 三田市城山運動公園から福知山線相野駅 番外花山院参拝 約17キロ歩行(5 日間総計約138キロメートル)
*地図=唯一の西国徒歩巡礼の地図帳「西国三十三所古道徒歩巡礼地図」発行所西国29番松尾寺
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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:49 | 西国徒歩巡礼

西国巡礼で会った飛び出し君

西国巡礼で会った飛び出し君
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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:44 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち 回目

西国三十三ヶ所 にみる狛犬
奈良県桜井市出雲 十二柱神社  相撲を始めた「野見宿禰」はここ出雲の出身である。
                       で四人の力士が狛犬をささえているのである。
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兵庫県宝塚市中山寺 中山寺山門境内側 木造の狛犬がなぜあるの 
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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:42 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち5回目

■西国徒歩巡礼 区切うち5回目■
5回目 2008年9月21日~25日
西国三十三ヶ所
徒歩巡礼
で見た秋

9月21日から25日まで5日間
20番善峰寺、21番穴太寺、22番総持寺、23番勝尾寺、24番中山寺、番外花山院まで回りました。約130キロを5日かけて歩きました。


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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:35 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち4回目

■西国徒歩巡礼 区切うち4回目■
4回目 2008年7月23日~26日
西国三十三ヶ所
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三室戸寺の蓮、もっと大きく咲く蓮もあったけど写りが悪くて

2003年から西国三十三ヶ所を一番から回り始めた。区切りうちで暫らく回っていなかったが、先月からまた回り始めた。

7月23日
先月は奈良興福寺西国九番南円堂で終えた。今回は7月23日早朝、奈良公園から歩き始める。
32キロ町中を歩き夕方やっと宇治の十番三室戸寺に着く。本堂前の広場には沢山の蓮の鉢が並べられ開花がみごとであった。あじさい、つつじも見事に手入れされ開花の時期の見事さが思われた。入山料600円だったか花を見るためなら、それも妥当かなという思いがした。
その日、宇治で銭湯に入り着替えコインランドリーで洗濯した。調べていた宇治のインターネット喫茶に電話をかけると、その電話は使われてないとのこと。そこでその晩は京都まで電車で行ってインターネット喫茶で夜を明かした。

7月24日
二日目は山の中のお二つのお寺を回った。東海自然歩道がコースに入っていてその道標もあったりしたが目標物がないので不安のなかで歩いていた。ほとんど野の中を歩くのでたまに飲み物の自動販売機があれば直ぐジュースを飲んでいた。
お寺まじかでは登山道ですがその外は舗装された林道様な道が続いていた。
十一番上醍醐寺に一時ごろお参りし、次の十二番岩間寺にもどうにか参拝した。
岩間寺を越し滋賀県大津市に入っていた。今日はもう参拝はできないけれど瀬田川沿いの次の石山寺に向けてとぼとぼ歩いていた。
その時にトラックに乗っていた男の人が声をかけてくれて、その人の家で泊まることになった。

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泊まらせてもらった男の人が世話していたお地蔵さん

7月25日
泊まらせていただいた大津市街から電車で十三番石山寺にお参りする。本堂で「源氏物語」の構想を得たということで紫式部の人形が飾られていた。源氏千年記ということで展示会が行なわれていたが、先を急ぎその展示は見なかった。。
琵琶湖沿いを歩いたが暑さにはまいった。アイスを買ったりジュースを飲みながら歩く。旧街道や東海自然歩道にそって行く。
十四番三井寺から西へ向かい滋賀から京都山科に入り、もう山門を閉じようとしている番外元慶寺に参拝することができた。
その町で銭湯に入り食事して公園で洗濯した。点滅するランプを前後につけて歩きだした。西国の地図に沿って歩くつもりだったが、夜間のこともあり道を間違い次のお寺の方向にはいけず。国道一号線沿いに東山を越して清水寺の下に出た。
そのまま山を下り鴨川の五条大橋のたもとの公園の倒した石柱の様なものに横になった。夜中前まではうつろうつろしていたが、それ以降はぐっすり寝ていた。

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清水寺、観光地とかして巡礼はかすむ

7月26日
電車で京阪東福寺まで行く。昨日迷ったので巡礼の道はつながらないのだが、そのぐらいのことは気にしない、間違えたところまでもどって歩きなおすという根性は持ち合わせない私である。
十五番観音寺は私も現地で初めて知ったのだが、皇室ともつながりが大きい泉涌寺という大きなお寺に属しているのだった。
それから十六番清水寺へ行く。ここで人出の多さに驚く、世界の清水寺ということが分かる。東南アジアからだと思う人々が多い。もちろん近隣アジアの人々もいるし、白人の方々もいた。あまり人が多くて私はちゃんとしたお参りせずにすませてしまった。
天気晴朗、盆地京都、石畳が輻射熱、清水坂を駆け下り十七番六波羅蜜寺は町中の小さなお寺だが占いが有名らしく若い女性が占いをしてもらっていた。
寺町通りを北上し19番行願寺は華やかさの見えない小さなお寺。
十八番六角堂はビルの谷間にあって憩いの場になっているようにも見えた。鳩に餌をやって喜ぶ家族があった。堂の正面に大きな赤い提灯が下げられ、建物には札などが貼られている。周囲に赤いよだれ駆けした地蔵さんがあったりする。
普通は本堂の脇で納経したりお札を貰うための場所があるのだが、ここは売場などが離れていて、気ままのお参りができる。
長椅子もあり私はゆっくりした、この後いくお寺もないし。観音経を読んお参りした。
その後、京都を下り東寺からほぼ国道171線 沿いに巡礼道をたどり向日市の阪急東向日駅前で食事し銭湯に入り着替えて帰宅した。


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六波羅蜜寺の地蔵」さんたち


10番から19番まで四日間 約96、5キロメートル 22万300歩
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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:23 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち

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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:15 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち3回目

■西国徒歩巡礼 区切うち3回目■
3回目 2008年 6月 日~ 日
記録なし
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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:06 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち2回目

■西国徒歩巡礼 区切うち2回目■
2回目 2005年3月20日~21日
 一泊二日の予定で西国を廻る、野宿するのでテント、寝袋、礼拝用品、地図、ノートなどで約11kgの荷物となった。
 JR天王寺駅6時20発和歌山行き快速(阪和線)に乗り、和歌山から7時42分王寺行き(和歌山線)に乗る。
 途中の駅で5分の待ち時間があった。駅で停車中、ワンマンの運転士に「電光掲示板が点いていないよ」と婦人が聞くと、運転士は「二両編成は点灯しますが、この四両編成は点灯しません」といっている。婦人は運賃を払いたいようだ、両替機が運転席の後にあるが、運転士はその役にないらしく、運賃は改札口の箱に入れてくれと言うのみだ。払う運賃が分からないのにどう払えば良いのか。
 駅が近づくと毎回こんなアナウンスが流れる。「間もなく○○、全てのドアが開きます。乗車券、運賃は駅出口の集札箱にお入れください」
 私はしまったと思った。天王寺から船戸まで1280円切符を既に買っている。私の前に座っていた男の人が改札を出るのを見ていると、切符を集札箱入れた様子がない。

 8時8分船戸駅につく、切符を記念に持って帰ろうと思ったが、駅前のタクシーの事務所からこちらを見る人がいるので、切符を集札箱に入れる。今の電車で、この駅で二人下車した。お客にならないかと、見ていたらしい。
 昨日の天気予報では二日間良い天気だと言っていたが、曇りで妙に寒い。昨日が比較的暖かい日だったので寒さを感じるのいかも知れない。
 ピッチ軽やかに歩く、上半身はシャツと薄手のフリースの二枚、風に当ると寒いが歩いていくと丁度良い具合だ。
 紀ノ川を渡る。もちろん橋の上だ、河原の草は枯れ切って、地面が見通せる。
 県道14号を東に行く、大した交通量も無いので気を許し早足で先を急ぐ。
 打田町下井阪、道沿いに手書きの「西光万吉寓居跡」の看板があり、すこし路地を入ると高さ60センチ程の角柱に以下の様に彫られていた。
 「西光万吉永住の地 不戦和栄の碑 十周忌にこれを建てる 昭和五十四年三月二十日 西光万吉先生顕彰実行委員会」
 さてどんな人であったのであろう、具体的な業績が全く分からない、地元では有名な方であろうが。
 そこから、しばらく行く、と道沿いに「西田中神社」があり、そこに9時についた。広場の奥に左右いっぱいに拝殿があり、そこは土間があり,窓際に長椅子があった。そこで参拝した。トイレはきれいに水洗いされている。「昭和21年に尾崎にあった若宮八幡宮本殿が移築合祀されたもの室町末期、寛永の建立のものあり、県指定文化財」というのが由緒である。住宅街の中なのでオオッピラには無理かもしれないが、暗くなってから拝殿で寝ることは出来るかもしれない。
 道標もなかったが、道端から見て進行方向左側の低い土地に、小さな屋根の下に花がそなえていて、何だろうと下りていった。そこに井戸があり、小さな地蔵さんが何体か並んでいた。下記のような由来が書かれていた。
 
「弘法井戸の由来(通称出水) 打田町花野 昔、弘法大師が諸国を行脚して当地に来られた。夏のこととて、余りにも暑く、のどがかわいたので水を求められたが、あたりには水はなく、だれも恵んでくれる者がなかった。ところが或る老婆がわざわざ遠くまでいって水をくんで来てくれた。 大師は大変よろこび老婆の慈悲を深い心に感じて持っていた錫杖(しゃくじょう)で地面を突いたところ、不思議にも、そこから水がこんこんと湧き出てきた。これがこの井戸の由来でこの井戸はどんな日照りでも清水が湧き出て涸れることがない。そして今も花野の人々の生命を守っている。昭和六十一年十月吉日」

 県道を東進すると、やがて国道24号に合流するが、歩道は途切れ、そのまま進行は出来ない。東田中神社を過ぎたら、左の路地に入り、黄色い看板「遊季本店」を目標に行くと、そこから国道を横断する陸橋があり、それを渡ると、「歴史街道,大和街道」の道標がある。その細い裏道を道なりに行き、JR紀伊長田駅をすぎ、長田観音の本堂の脇を抜ける。そこから道を間違え、JR粉河駅にでた、そこで食道に入り昼飯とした。

 西国三番札所、粉河寺の本堂に来た。ひさしぶりの札所の参拝である。ろうそく線香をあげ、観音経を上げる。 粉河寺の本堂は西国札所の中では最も規模の大きいそうだ、大きいし、欄間などの造りものにもこっている。
 境内で気に入った歌碑を見つけた「遍路の衆の打ち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に 牧水」

 1時に粉河寺を出発、紀ノ川へ注ぐ中津川沿いに南行すると地蔵さんの脇にこんな看板があった。

 「慈悲の心は人と物との間に気を通わせるの・・・、牛が売られよるとき赤飯こしらえてお別れしよるでな。牛の方でも運命がせまってるちゅうて感じよって啼きよるの顔そむけよるの、中国では明日豚買いがくるっちゅう前にその気が意気が通うんやろうね。豚が啼きよるの。豚が啼いたら金もうかる、ちゅうてな。そやよってね、この気の通いというつよい力を忘れてはいかんな。
 それがわかったら仏さんに自分が通じあい、人間同士、気が通うことが、つかまえられる。動物や魚かて、人間に会わなんだら殺されるにすむ、その殺されずともえものを殺して喰う人間に、あ可哀そうにという気持をもたせる。それが仏教なんやね(大西良慶師)

 道沿いの工場のような建物の前に、こんな句碑があった

        つばくろや熔接灼けの顔あげる     北田和彦
        洗車水吹きもどさゝる年の暮   63歳 北田和彦

 粉河から国道24号にそった大和街道を東進する。途中、旧名手本陣の屋敷を見る。穴吹からは紀ノ川や国道24号線を離れ山の中へ向う、これから先、食料品店はないと思うので、国道を10分もどりコンビニで晩飯のお握り、パン等を買う。
 国道480号線を北上する。国道といっても幹線道路ではない、ほとんど車は通らない。5時頃に道は東谷というバスの終点に着く、そこに男の人がいた。山から下りてきてバスが来るのを待っているそうだ。

 暮れかかってくる。野宿場所として考えていた定福寺は村落の中にあり、かってに泊れない、そこで懐中電灯を用意した。それから林道として車も通る山道を歩いた。
 テントの張れる場所を探して暗闇を歩く、ほとんどの時間電燈を消して歩く、舗装されているので苦ではない。七越峠茶屋跡にテントを張ることにした、7時20分に成っていた。
 食事して、服を着こんで寝袋に入った。寒くて夜中に何度か起きた。ズボンの右脚が湿気を帯びてくる。地面の湿気が伝わったのだろうか。
 4時30分起床、テントをたたむ、朝露は落ちてない、テントの底面も感想している、寝袋は少々湿っぽいが、夜中の湿っぽさは無くなっている。こんな経験は始めてだ、外気が冷たいので私の体温でズボンが濡れたのだろうか。
 真っ暗、樹木が鬱蒼と道の分だけ空が開け、星てんてんと、暗い中の風景、暗いなりに見えている景色

 七越峠茶屋跡を5時30分に出発する。そこし上ると外灯が明るい、暗い中定福寺からずっと歩いたが外灯は一つもなかった。不思議に思いながら、さらに上ると三国山の標記があり、ビルが現れた。このビルは「三国山航空路監視レーダー局舎」、この施設のおかげでここまでの道が舗装されているらしい。付近に「対空送信所」「対空受信所」もありこの間の道路は簡易の歩道まで付いた車道になっている。
 「対空受信所」から谷側に少し降りると、「七大龍王」の小さな社があり、そばに畳敷きの一戸建てがあり、非難小屋としても使えるようだ。

 この道ダイヤモンドトレールとも呼ばれる登山コースになっているので道標はしっかししている。
 弘法大師求聞持所として藁葺きの虚空堂はあり、軒下で休むこともできる。

 9時施福寺に着く。
 お参りしてから、納経所に納経帳を出してから、財布を捜そうとしたら中々出てこない、「どこいったかな」と私がいっていると、寺の人は朱印を押したままで手をとめている。そして財布がでてくると墨書を始めた。私は悪く考え、金がなければ墨書はしないつもりだったのではと思った。
 
 それから、何も考えず、そのまま参道を下った。
 よく分からないまま長野方面という標識でそのまま下り、「槙尾山口」というバス停にでた。そこにいたバスの案内員に聞くと、私は別の方向に下山していたことが分かった。

 後から、「佐藤孝子」さんの本を読み返して分かったが境内トイレの前から滝畑ダム方面へ行かなければならない。出発直前に呼んだ本に参道のことが書かれてあり、そこを通ってしまった。

 バス案内人に聞いて国道170号線で河内長野に向かう。
 


















 


 
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# by henroseikatu | 2010-03-07 20:58 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち1回目-2

■西国徒歩巡礼 区切うち1回目-2■
1回目 2003年4月29日~5月7日
●4日目(2003年5月2日)熊野本宮大社から近露王子まで 歩行距離約24.4km
 近くでお経か、祝詞か上げている。それを聞いて、暗いうちから起きだした。昨晩とは違う大鳥居の方から大斎原にはいる。高34メートルの日本最大の鳥居だそうだ。「皇紀2661年 大いなる船出 日本第一大鳥居建立の意義」と最もらしいことを書いてあったが。後から聞くと皇紀2661年とは西暦2001年とのこと、ミレリアム記念の大鳥居だと分かった。
 熊野三山のうちビジアル的に本宮が優れていると思った。八咫鳥(やたがらす)の大きな幟が入口にあり、鳥居をくぐり参道の階段を上る。両脇を「奉納熊野大権現」の幟が立ち並ぶ。
 登りきると拝殿や社務所があり、その先の門をくぐると社殿がならぶ、桧皮葺で木肌のままの落ち着いた社殿です。
 夜が明けると、参詣者はきていた。お守りを売る窓口は空いていないので、その辺りで待つていた人もいた。社務所の開くのを待てず帰る人もいた。七時を回ると拝殿にアンプなどが運び込まれ、8時前に社務所で神官らが集まりミーティングしている。8時からつづみに電子ピアノの伴奏で奉納された。やっと社務所が開き参詣者が、御守り御札を求めていた。 

 拝殿は四つあり、どこからお参りすれば良いのか分からないので、神官に聞いた。そうすると入って正面に当る第三殿が主神なので
第三、第一、第二、第四の順番でお参りするとのことだった。第三殿だけは他とは独立してはいたが小さな社殿だったので主神だとは思わなかっ。聞いてよかった。見ていると、第三殿からお参りする人もいるが、第一からお参りする人が多い。

 つづみの奉納を指揮していた神官に、質問した。
 熊野三山のうち熊野速玉大社が全国熊野神社総本宮と言っているが(私の見たところ、他の二社では全国熊野神社総本宮との表現は見なかった。速玉大社では案内板やお札に明示されていた。)御社も速玉大社に属するのですか。と聞くと「本宮は本宮で那智は那智で総本宮と言うし、そこの所は深く追求しないほうが良い。」と言われた。
 大斎原に仏経徒の一遍の碑があることに驚いた、空海が在来の神を仏経に取り込んで本地垂迹を取り入れたのではないか、神社の方ではどう思っているのか。と聞くと「元々、本地垂迹である熊野権現をお奉りしているし、信仰の目を向かせるために本地仏の力を借りた信仰の目が開いてくれれば良い、ついこの間まで明治維新までは神仏混合だったのだから」と言われた。
 神だ仏だとわざわざ分けて考える必用はないのかも知れない。

 九時に成っても宝物殿があかないので、さいそくして開けてもらった。先を急ぎたいけど宝物殿が空くのを待っていたのだ。小さい手提金庫を持って来た若い神官は、「何もないですが、明治の洪水で流されて大したものはないのです、入館料三百円貰うのですがよろしいですか」と言った。私は思わず、そんなこと言っちゃあだめじゃないですか、と言った。
 境内の裏手に抜け熊野古道をたどる、伏拝みあたりにくると、王子めぐりらしきグループが多くなる。ほとんどが私の対面からくる、ガイド付き王子の説明をしている。このあたりは茶畑が続き、茶もみしている姿も見られた。雨が予報どうり降ってきた、私はカッパを着る。田園風景だ、田んぼに水がはられている。
 「ほんまもんロケ地」と言う看板が目につく、観光客目当ての売店もだしている。
 山に入ると木々にさえぎられ雨が降りかからなくなった。

 このあたりでは、団体は見られなかったが、男女の二人や数人ずれのグループがあった。だいたいは私と反対の方向に進んでいる。
 めずらしく私と同じ方向に行く人がある。大きなザックをしょつた若い男女だ、地蔵さんを見たり野草を写真に撮ったり、他の人とは違いゆっくりと歩いていく。お先にと言って私が先に行く。また、やはり彼らが歩き出すと私より速いようだ、後先に成りながらしばらく歩いた。その男女と三越峠で雨宿りしながら食事をした時に少し話しをした。その男女はテントも持参しているそうだ、まだ今日泊るところは未定だそうだ。
 ここまで山道が主だったが小広王子からは車道を通るようになる。継桜王子では休憩所マークがあったが、東屋を確認できず、また周辺に民宿や住居があり、ここでの野宿をあきらめ、継桜王子への階段を登らず、野中の清水へも寄らず、先を急ぐ。直ぐ下の並行する道路に食料品店があった。これまで住宅が多くあるところを歩いてきたが、店屋はなっかった。そこでりんご、ソーセージ、ポテトチップスなどを買った。そこで巡礼をしていると話すと驚かれた。和歌山の紀三井寺まで歩くことをはなす。
 近露(ちかつゆ)までゆくと、そこは旅館が多くあり、酒屋なのか店先で酒を飲んでいるようだ。温泉の表示もあった。そこで昼間にあった男女にあった。「これから、どうするか考えている」とのことだった。そのあと彼らは自動車に荷物を積んでいた。歩いていく仲間だと思っていたが。どうも違うらしい。近露王子を見てから川沿いの便所に行くと、駐車場に東屋があった、しかしそこにはキャンピング車があり、食事を取っていた。そこでの野宿をあきらめ川沿いを歩いていくと向こう岸の橋の下に広場があり、寝られそうだ。天気予報では今晩も雨が降るようだ。橋の下に行くと、そこは何かの作業場か板が敷きつめられていた。寝るのは丁度いい、まあ大雨が降れば、橋の排水が上から降り注ぐし、風が出れば雨が降りつけるのわかっていた。いつも下にひくシートで寝袋包むようにして、その日は寝た。

●5日目(5月3日)近露王子から田辺まで 歩行距離約38.3km
 昨晩寝る頃になり、細い雨が降ってきたが。それだけで強い風も吹かず濡れずにすんだ。
 四時頃から起き、歩きだした。

 滝尻王子につく、今日はずっと山の中を歩いていてまともな食事をしていない、ここで食堂へと思っていたが、お土産やしかない、お弁当もだんごも売り切れでした。でもここで、お経を書いた菅笠を手に入れた。商品としては菅笠に熊野古道と書いてあったが。店頭にかざっていた経の菅笠を貰った。
 やっと巡礼らしくなった。上下白い服装で金剛杖は持っていたが、本当の巡礼に見えるだろう。
 滝尻からは富田川沿いに清姫の墓などを通り南に行く、松尾寺さんの地図では川の西側の道を行くようになっているが、私は河と渓谷社の地図の熊野古道をたどり清姫の墓のさきで吊橋をわたる熊野古道の道をいった。
 稲葉根王子から古道に入ろうと思ったが道標は民家の庭先を指し、その先が行けるのか分からず、犬に吠えられるし、トンネルを通った。住宅地を通り田中神社、八上神社までたどり、それからは車道を先を急いだ。熊野古道の道からだいぶ外れている。
 そのころ雨が降り出した。田辺の駅前まで行こうと思っていたが、国道沿いにビジネスホテルがあった。すでに暮れかかっている。そのビジネスホテルに泊ることにした。
 ホテルでシャワーをあびてから買い物に行った。このあたり郊外大型店舗が連なっていた。また明日は雨との予報だったので傘を買い、少し遠いがフロントで聞いたコインランドリーで洗濯をした。それから食事をしようと思ったが、どこも閉店となっていた。大型スーパーも閉まっていた、何処も八時で閉店らしい。開いているのはパチンコ屋と本屋で、コンビニをみつけ、夕食とした。

●6日目(5月4日)田辺から印南町津井王子まで 歩行距離約28.7km
 バイキングの朝食はサービスだというので、開始の6時半を待つて食事して、出発した。
 雨は殆んど降っていない。国道42号線沿いに行く。南部大橋を渡ると国道は歩道が無い急坂が続くそこで左の側道に入り、すぐ左に折れ「梅平の梅」の工場前を通りJRのガードをくぐり坂を上っていく。上りきると突き当たるので左に折れる、そのまま直進すると、やがて展望台につきあたる。展望台の脇を降りると千里観音堂へ行ける。
 千里観音堂にはケビン風の小屋何軒もあり、シャーワーの設備もあった。夏には海水浴の人が集まるのではないか。その日には人影がなかったが、トイレが有り、水が使えた、また公衆電話も置いてあった。隣の敷地の千里王子がある。
 境内の先には砂浜が広がっている。砂浜を西に行くと浜辺に沿って走るJRの下を抜けるトンネルがある。「熊野古道」の地図はここから山側に抜けている。
 私はしばらく砂浜を歩いてみたいので海岸線をずっと歩いた。「古道徒歩巡礼地図」では海岸線を道が続いていた。砂浜は丘にさえぎられている。私はもしかして磯ずたい先に行けるのかと思い、丘を回り込んだが、岩が海に落ち込んでいて歩けず、先の海岸線は高い要壁の上を線路が続いている。浪打際を歩けそうもない。
 「古道徒歩巡礼地図」を改めてみると、線路上歩くようになっている。私は丘の手前で線路を渡つた。そこは運動公園で、道なりに上り、切り通しを過ぎると線路沿いに道が続いていた。
 岩代王子に行ってから、線路の海側を、しばらく戻ってみたが、道は続いていなかった。道を探しながら、だいぶ時間を使ってしまった。砂浜を歩くということばかり考えていたら、危険な事に合う可能性もあったと思う。
 国道から離れ畑の中を上って行くと、花を作っているビニールハウスが立ち並んでいる。ここで目新しい船形地蔵の道標があった。「右 き三井寺 これより十四り」と表示され、あざやかな切花が山ほどそなえられていた。道標が少ない所に新設してくれて、ありがたいことです。
 ここで犬が近づいてきた。愛想があまり良いので、私は「こんにちは、はじめまして・・・・・・」と話かけながら、首筋、背中、腹となであがた。私が歩き出すと、後をつけてくる。帰れと言っても、なかなかいなくならない、いつまでもついて来る。首輪しているし、この辺りの飼い犬だと思うのだが。しかたなく手を上げて追いかける。しかし逃げない、何度もそんなことを繰り返した、こちらが本気でないのを見抜いている様だ。仕方なく棒で小突くと「キャン」と逃げて姿を消した。しばらくすると、のこのこついてきた、帰るところがないのだろうか、棒を振り上げ追いかけると,素早く逃げた。二三度続けると、それっきり姿を見せなくなった。
 榎木峠にさしかかるころ雨が降り出した。大降りでカッパを着た。中山王子神社につくと境内へ入り口は雨宿りのできる立派な屋根がある。座れる,寝れる座敷があり、電灯もあり、水もあったので、ここで宿泊しょおとも思った。神社の前を軽自動車が通ったので,地元の人の目があるのだと思い。明るいうちに留まるのは良くないと思い先に進むこととした。
 切目駅でジュースを飲みながら休んだ。寝る場所の当てもなく先に進んだ、暗くなり飯を食べたいと思ったが道沿いに食堂は見当たらない。印南港を過ぎて港を見下ろせる岬の先にラーメン屋を見つけ、野菜炒めライスを食べた。

●7日目(5月5日)印南町津井王子から湯浅まで 歩行距離約39.7km
 昨晩はパラパラ降っていて、1メートルもない軒下なので雨に吹き込まれたら、どうしようと思っていたが、たいした雨には成らなかった。それよりも暗闇の中を、時々通る自動車のヘットライトが顔に当たり、見られているようで落ち着かなかった。寝る場所は道路からへっこんでいて、一瞬しかライトは当たらないので、車からは気ずかないと思うのだが。
 4時まだ暗い内から歩き出す。ときどき通る車はスピードを出している。街灯をたよりに歩き、車の音が聞こえてくると懐中電灯を点けた。暗いうちは古道に入らず国道沿いを歩く。
 清姫草履塚のすこし手前、国道の東側に面して「十三塚之碑」があり、巡礼者の供養塔なので勤行を上げさせて貰った。宝筺印塔を中心に五輪塔が並んでいる。熊野参詣の羽黒山の山伏一行が、ここで海賊に殺されたのを地元の人々が憐れみ供養を始めたそうだ。無念だっただろう、神も仏も無いと思ったのではないか。長いこと供養してくれて、ありがたいことだ。
 祓井戸観音のお堂は解体されコンクリートの土間だけが残っていた。再建されるのだろうか、付近には何の掲示もなされていなかった。
 塩屋王子跡である塩屋王子神社は「美人王子」という幟が目に付いた。主神の天照大神が美男なので、それにあやかり、美しき子が授かると言われ,若い夫婦の参詣が盛んであるとのこと。

 道成寺への古道からはずれ御坊駅で昼食をとった。そういえば朝飯をくっていなかった。
 それから道成寺に向かわず近道をすると色彩鮮やかな宮古姫の像を見つけた。宮古姫は髪長姫とも呼ばれ、母親の犠牲により丈なす黒髪に恵まれ、天皇の妃までに成った地元の女性で、これが女人開運を祈願する道成寺縁起だそうです。碑文で有吉佐和子は「最近は安珍清姫の火の恋ばかりになっているが、髪長姫の物語の方が、はるかに美しく思われますし好きなのです」と書いている。
 高家王子跡のある内原王子神社には、こんな神拝詞が掲示してあつた。

 「掛けまくも畏き大神の大前を拝み奉りて慎み敬ひ白さく、萬の禍事、非穢あらむをは、祓ひ清めて、心にかえる雲もなく大神の御教へのまにまに直き正しい真心もちて、誠の道に違ふことなく負ひ持つ業に励ましめ給ひ、家も身も健かに栄えしめ給へと恐み白す。」

 私が本で知っていた祝詞の中には「天皇を仰ぎ奉り」という言葉があり、私には抵抗感があり、すんなり読もうとは思えなかった。
 必ず入って入るもんだと思い込んでいたが、そうでもないことが分かった。

●8日目(5月6日)湯浅から海南 歩行距離18.4km
 3時30分に起き出した.野宿した軒下から駅前交番が良く見えたが、夜中には人影はなかった。私が荷造りしているとパトカーが来て交番の二階の電灯が点いた。近くのトイレで身繕いして5時30分に歩き出す。湯浅市街には熊野古道の表示がそこここあった。
 逆川王子社の近くで道を間違え、だいぶ遠回りして国道まで出て間違えに気ずいた。そのまま逆川王子社までもどる。糸我峠をこしたところに「くまの古道歴史民俗資料館」があり、ぜひ見ておきたいので.時間調整しながら、ゆくりきたが、ここで時間を使いすぎた。
 道は舗装されていた、日が輝き汗がふきだした。みかん畑の間に糸我峠があった。湯浅の街はずれから糸我峠まで風景画が各所に掲示してあった。土地の風景であったり、昔の風俗を描いたものであった。それもコピーではなく原画そのまま画用紙やパネルをガラスで被っているものだ。
 糸我峠を下りきって、糸我稲荷神社の隣の「くまの古道歴史民俗資料館」に行くと,休館であった。毎週水、木が休館日であった。ぜひ見たかったので、残念である。
 ガッカリして歩いて行くと整備された境内のある得生寺があった。得生寺にはこんな言われがある。「紀伊国有田郡雲雀山中で、中将姫を殺害せんとした武士伊藤春時は姫の徳に打たれ殺害することが出来ず、名を『得生』と改めて姫をお守りすることになった。」
 ちょうど境内では背丈ほどの花道が組まれているところだった。これは中将姫のご命日にちなんで毎年5月13、14日に行われるご来迎会式のためで、子供たちが菩薩に扮する「二十五菩薩練供養」である。
 宮原の市街をぬけ有田川を渡る。宅地のわきに伏原の墓がひっそりと墓石が並んでいた。

●9日目(5月7日)海南から紀三井寺を通りJR船戸駅まで 歩行距離約24.5km
 今まで熊野古道の王子めぐりの地図を主に見てきたが、ここから熊野古道をはずれ紀三井寺へ向うので、松尾寺発行の「西国三十三ヶ寺徒歩巡礼地図」を見ることにした。
 黒江の町並みを通り、和歌山に入り、亀の川を渡ったら大通りを直進せず、最初の信号で右側の道に入る。(私はここで直進してしまつた。後で地図で確認しなおし間違いに気ずいて、後戻りした。)
 道なりに進むとやがて紀三井寺の門前町になり、お土産屋が並び観光地の雰囲気になる。西国一番の青岸渡寺以来のにぎやかさである。

 入山料50円を払い、紀三井寺の山門をくぐる。長い階段を上ると山腹に本堂などがある、見晴らしのよい境内が広がる。
 海を見晴るかすベンチに荷物を下ろし、腰をかける。しばらく休み息を整えてから参詣の身支度をした。本堂でたどたどしく観音経を唱えた。何人か参詣者はいたが巡礼らしき人はいなかった、いずれも観光の人らしかった。
 納経していると、白衣等の巡礼の装束はしていなかったが、自転車で巡礼しているという60代だろうか男の人にあった。この巡礼で初めて会話した巡礼の人だ。
 四国に比べて道が分からないと嘆いていた。四国遍路は一度は自転車で結願し、後はバスツアーで何回も回っている。今回はじめて西国を廻っている、との事。

 本堂の地下にある宝物を見せてもらい、他のお堂などをみて回った。真新しい塔があつたので三百円払い塔に上った。上まで上がり、ここは納骨堂だとやっと分かった。この何も無い大きな吹き抜けに、やがて巨大な観音様が鎮座するらしい。そして、ここまで上れば観音様の御尊顔を拝めるらしい。
 境内で掃除をしていた、おばさんに記念写真のシャッターを押してもらう。その時に、那智から歩いて来たと言うが、なかなか信用してくれない、「電車に乗ってきたんでしょう」と言われる。そういえば、歩き通したという証明は何もない。

 今朝はまだ食事をしていなかった。海南の市街を出るとき方向を間違い時間をくい、先を急いだからだ。少し早いが門前の喫茶店に入った。
 オムライスとサラダを頼む。マスターに「巡礼ですか」と話しかけられ、歩いて巡礼していると言う。「最近は歩く人も多くなっています」と言われる。
 毎度の事だが、旅の終わりがくると里心が出てきて、早く家に帰りたくなる。今朝は紀三井寺を御参りしたら直ぐに、大阪に帰ろうと思っていた。しかし、まだ昼前だし次の巡礼のために少しでも先に行くことにした。
 寺から山門を出て、直ぐ右に折れる細い道に入る。山の麓の道だ。紀三井寺の裏門を通り、道なりに進む。すると、住宅街の中に寺名の由来の一つの「吉祥水」の上り口がある。階段を上る。左側の斜面には住宅が連なり、右側は藪になり、その下には吉祥水からの水が流れている。

 吉祥水の並び、少し行った所で壁越しに宝匡印塔があつた。門を入ると墓石が並んでいた。宝匡印塔を見ると「西國三十三度 ?塔」という文字がはっきりと確認できた。
 今まで道すがらお寺や墓地を見かけると宝匡印塔等などの文字を読もうとしたが、風化により文字を確認することが出来なかった。ここで始めて確認できた。
 これは「西国三十三度供養塔」と言って、西国三十三ヶ所観音霊場を三十三回巡った行者が満願供養を記念して建てたものである。
 (後日、T氏の調査により、この供養塔は新発見のものであり、付随文書もあることが判明した。)

 いつのまにか地図とは違う道を歩いていた。高速道路を目当てにして歩き、鳴神団地で地図の道に戻った。しかしまた「紀伊風土記の丘」という公園の所で道を間違えた。
 どうも地図を読み取るのは難しい、良く分からないと感で進むので、道を間違える。四国遍路では案内板、道標が多くあり、すぐに現在地を確認できる。しかし西国の市街地には、道標はないと思った方が良い。
 現地の人に聞くとまず、紀ノ川の堤防沿いのみちを薦める、地図の巡礼道とは違う。(分かりやすい道を教えてくれるのではないか)
 地図に薄く小さく印刷されている地名を読み取れば、良いのは分かっているが、あわてていると目が集中できない。

 その日はJR和歌山線の船戸駅まで歩いて電車で大阪に戻った。
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# by henroseikatu | 2010-03-07 17:47 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち1回目-1

■西国徒歩巡礼 区切うち1回目-1■
2003年から09年にかけて7回に分けて西国三十三ヶ所を巡拝した。 
1回目 2003年4月29日~5月7日
文章を一生懸命書いたのは最初だけになってしまいましたが、そのときの記録をここに公表します。


西国巡礼① 1番から2番

 四国八十八ヶ所の霊場は徒歩野宿の区切り打ちで二回結願している。大阪から、わざわざ四国まで行って遍路したわけだが、地元大阪には西国三十三ヶ所の霊場がある。しかし西国は近畿いちえんに霊場が散らばっていて、徒歩で廻る情報は少なくちゅうちょしていた。
 今、仕事の関係で長い休暇が取れないので、とうぶん四国遍路には行けそうもない。でも西国巡礼なら週末ごとに廻れそうだ。
 そこでゴールデンウイークの連休を使い、札所間の長い1番から2番を歩き、後は週末を使い巡礼して行くことにした。
 昔の人は、自宅から歩いて巡礼を始めたが、わたしは電車で現地に行く。西国だけではなく、この機会に熊野三山を廻ることにした。JRで紀勢本線の新宮まで行く。

●1日目(2003年4月29日)熊野速玉大社から那智駅まで 歩行距離約14km
 4月29日早朝、JR天王寺駅を6時41分発の和歌山行きの普通電車にのった。普通を三回乗り継ぎをして新宮に午後1時42分に着いた。
 駅から泥層の上に浮く「浮島の森」により、熊野速玉大社に行く。わりと地味な境内で、拝殿には本地仏である仏像の掛け軸もかかっていた。神社の中で仏像の掛け軸が珍しく思えた。
 御朱印を貰うと「神倉神社の御朱印も、ここで押しますがどうですか」と神官に言われた。隣のご婦人方は同じようなセールスをされ断っていた。私は神倉神社までの行き方を聞きたかったので、神倉神社の御朱印もお願いした。
 次の目的地青岸渡寺の方向と同じなので神倉神社に行くことにした。少し国道沿いに歩き、山に向うと鳥居があった。とても急な石段が続く、それも自然石を使った大小ガタガタする歩きずらい石段だった。階段を上りきると右側に岩盤が現わる。左側は視界がひらけ新宮市内が一望できる。小さなお社がゴトビキ岩にへばりつく様に設けられている。このゴトビキ岩と岩盤の裂け目は、女性の○○だとのこと、しばらく見つめていた。
 ここの下りは恐い、凸凹した石で不定形に作られているので、足を滑らせたら大事になりそうだ。この石畳を松明を持って駆け下りる「お燈まつり」があるそうだ。

 それから国道沿いに、歩いた。王子跡や古道もあったが、それらによらず、ひたすら那智に向けて前に進んだ。夕方になり、考えて見ると、昨晩使っていた懐中電灯を、今朝ザックの中に入れた覚えがない。ザックの中を確かめて見ると、やはりなかった。
 スーパーを見つけ、そこにただ一つ残っていた単1を二本入れる防水懐中電灯を買った。そこでザックの後に百円ショプで買った自転車用のピカピカひかるテールランプをつけた。胸には反射するたすきを掛けた。ザックの肩ヒモに吊るした胸の前にあるカバンには元もと反射板がついている。
 人家のあるところには歩道や、路側帯があるが、そのほかは歩行者のことを考えていない道である。
 夜八時前にJR那智駅付近に着く、今朝電車で通過したときに、海辺に公園があり野宿できるかも知れないとチェックしていたところだ。
 駅前に食堂はない(さっきのス-パの近くにあったが)どの店も締め切って寝る時間だ。やっと見つけた酒屋でポテトチップスとカステラ風の菓子を買い駅で夕食とした。
 駅に隣接して温泉「丹敷の湯」があって600円で入浴した。カランは6組しかなかったが、浴槽は大きくて、入浴者もボチボチで、気持ち良く湯につかった。
 風呂から上がり、しばらく駅で座りながら、ここで寝ようかと考えた。天井は高くガランとした結構広い無人駅で、長椅子がゆったりとした間隔で4組ほどならんでいた。その紀州材で作られた真新しい長椅子は、熊野古道のキャンペーンで贈られた物だと思う。紀勢線の各駅のホームにも置いてあった長椅子だ。長椅子とは言いながら二つの仕切りがあり、その上に横になることはできない。
 駅で寝るなら土間に寝るしかないし、最終の電車が11時過ぎにある。疲れていて、直ぐに横になりたい。
 そんな訳で、さっき見当をつけていた暗がり行くと、どうも神社らしい、拝殿の軒下の縁側にシート、マットを引き寝袋に入り寝た。真っ暗闇なので周囲が気にかかることなく寝入った。

●2日目(4月30日)熊野三所大神社から地蔵茶屋跡 歩行距離約15.4km
 気がつくと空は明るくなっていた。あわてて荷物をまとめた。神社には早朝、お参りや散歩に来る人がいる。神社の軒下で寝たのを近所の人にあまり知られたくない。
 昨晩はわからなかったが、私が寝た場所は熊野三所大神社と呼ばれている立派な神社で浜の宮王子社跡でもある。隣には、ぜひ寄って見たかった補陀洛山寺があった。補陀洛渡海した僧侶の名が刻まれていた。再現された渡海船があるらしいが、早朝なので見れなくて残念だった。
 那智の滝まで、熊野古道の標識をたどって王子跡に寄りながら、畑を見て、民家の間を進んだ。私は四国遍路と同じく「おはようございます。こんにちわ」と声を掛けながら歩いた。「尼将軍の供養塔」へ行く標識があった。供養塔へ行くのに時間はかかるのか、今いる場所は、この地図の何処なのか、知りたかった。ちょうど出てきたおじさんに声をかけると、地図が良く見えないとメガネを取ってこられ、説明を聞かせてくれた。尼将軍の標識を地図にチェックだけして、勧められた旧道を進んだ。
 ちょっと高台の開けた場所から、大門坂への上りがはじまつた。

こんな立て札が立っていた。
    告 入山心得
   熊野の神社佛様は大自然そのものです。古道を歩くとき、次の約束を守って下さい。 
   ●持って来たもんはぜんぶ持って帰ってよ。
   ●残していってええのは足あとだけやで。
   ●持って帰ってかまんのは土産と思い出だけやで。
         火の用心   那智山商店会

 巨木と一緒に私も記念写真を取りたかったが、まだ朝はやいから頼める人はいない。上り口の夫婦杉だけを写真に撮った。巨木がつらなるなか、古くからの石畳の階段を歩いていく。雰囲気は江戸時代だ。息を切らせて上った。そんな長くはなかった六百メートル程だそうだ。石畳が終ると直ぐ、売店が並ぶ参道に入る。
 階段を上っていくと神社と寺と分かれるので、私は右の青岸渡寺の山門をくぐった。直ぐに本堂の軒下にあった椅子にザックを下ろし、しばらく息を整えた。
 たらない巡礼用品を本堂の中の売店でそろえる。金剛杖(2000円)納め札(200円)白衣(ここでは長袖の笈蔓と言う1500円)輪袈裟(四国と同じように、西国三十三ヶ所と書いてあるのかと思っていたが、那智山青岸渡寺としか書いてなかった2000円)納経帳(墨書、朱印済み2000円)。菅笠や手甲はおいてなかった、白衣はLが欲しかったが、ワンサイズしか置いていなかった。そして白衣の生地は遍路用品として一般的に手に入る物より、薄く良くない。
 納経帳は「お祓いずみ」として墨書、朱印が押してあつた。納経帳に日付を入れるという、私はお参りしてからと言いそれを断った。四国遍路では基本的に納経帳に日付を入れないが、西国の納経帳には日付の欄がある。どうも、前もっての墨書朱印には、有り難味がない。良かったのは小型の納経帳があったことだ、おおさかの仏具屋では大型のしか置いていなかった。
 身支度をして、本堂に入りなおす。お坊さんやお守りを売る女性が立ったまま「お疲れ様でした。」等と参詣者に声をかけている。四国遍路では見なかった光景だ。私が経を読んでいた時には、お坊さんが参詣者に寺の来歴を説明していた。
 私は、とてもたどたどしく観音経を読んだ。内容や繋がりを考えられず、次々の漢字を読むだけで精一杯だった。そのたどたどしい恥ずかしさを思い、周囲の人を感じて、経に集中できぬまま、長い観音経を読み終えた。
 本堂内を見てまわって「オセタ」を見つけた。三十三度行者が背負って巡拝した箱で、三十三ヶ寺の御本尊を奉ってある。その行者は33回の西国巡拝をもって満願とし擬似葬儀し生まれ変わりの儀式をした。

 それから那智御滝まで下っていった。寺の参詣者より人が多かった。寺にはいなかった団体客が何組も、次々に来る。車道から滝までの急な石畳の階段に尻込みして座り込んでいる人もいた。下りきった広場から133メートルの滝を見上げる。本で見た金幣が見えた。
 ここに飛滝神社の社務所があり、「お滝拝所(お滝水滝つぼ近く)片道2分程でいけます 御参入料300円」と書いてあった。
 長らく御参入しようかどうか考えた。ここまで下ってくる間に青岸渡寺の三重の塔に200円払い上ったが大した事はなかった。しかしもう一度これるか分からないしと思いながら。結局300円を惜しんでお滝拝所には行かなかった。(大阪に帰ってから、この文を書きながらお滝拝所に行けば良かったと思いだした。)
 10時頃土産物屋で今日始めての食事をした。土産物屋ばかりで食料品店を見つけられず、お土産屋で飴と饅頭を一箱買った。
 熊野那智大社は朱塗りの社殿で、御朱印と熊野牛王を貰った。

 青岸渡寺の鐘楼横から熊野古道の道が始まる。「那智第二瀧1.5km 第三瀧1.7km」の標識があり、見
に行こうか迷ったが結局先を急ぐということで、そのまま歩いた。直ぐに整備された、東屋もあり、芝生の斜面が広がる、長い長いスベリ台がある那智高原公園の中を通過する。
 登立茶屋跡で反対方向の本宮から来た8人位の登山の服装をした中年男女とすれちがった。ガイドが引率し、宿泊しながら熊野古道を歩いているようだ。
 3時30分に地蔵茶屋跡に着く。沢が流れて、東屋がある、そして立派な便所がある。林道が通っていて、プレハブの小屋がある。さらに言えば山火事の為か消防につながる非常電話が設置されている。
 この先にも休憩所はあるらしいが、水はなさそうだ。少し早いけれど、寝床はここに決めた。昨日は風呂に入ったが、洗濯は出来なかった。着替えは一組しか持っていない、沢で洗濯をすることにする。
 那智の方から青年が下りてきた、私のいる東屋を通り越し地蔵堂の前のベンチでゆっくりしていた。

私は心の中で早く先に行ってくれと願った。私が洗濯をしだしてもベンチに横になっていた。
 私は彼の側まで行って、どこまで行くのテント持っているの、と声をかけた。彼は「ここならテントを張れると聞いてきた、小口自然の家に電話したら泊れないと言うのでテントを持つて来た」と言った。私はテントを張ると朝露で濡れたり,しまうのに大変だろう、良かったら東屋で一緒に寝ませんか、と言った。彼は「決心がつかずにグズグズしていました。明日のこともあるから、もう少し先まで行って見ます。」と言った。
 この日、シャツ、パンツ、靴下を沢で洗濯した。その晩、少し風があり、洗濯物は朝までに乾いた。
東屋の隣にある便所は暗くなってから人が近づくとパッと電燈が点く仕掛けになっている。

●3日目(5月1日)地蔵茶屋跡から熊野本宮大社 歩行距離約29.3km
 空が白みはじめた、4時30分出発、ほどなく石倉峠に着く。5時45分、越前峠に着く、最大の難所と
書いてあったが、上り一辺倒だったが、足場が良く、なんなく登れた。

 四国遍路では山中の遍路道にハガキほどの大きさで道標や励ましを書いた札が吊るしてあった。熊野古道では見かけなかった、しかしあつた。「西国観音巡礼 念彼観音力 四国鯖大師 沙門明善」と四国遍路で見かけた鯖大師の札だ。
 熊野古道は西国巡礼としての標識は少ない、巡礼として歩く人は見かけないし、ほとんどの人は私とは逆の方向に進んでいる。だから、ほとんどの標識は私の行く方向とは逆を指している。(それで、標識の設置場所により、標識が認識しずらい事がある。)
 数は少ないが西国巡礼の標識は一種類あった。直径12cmのプラスチックの札に「西国三十三ヶ所巡礼道」と矢印がある。熊野古道とは反対方向を指していて、ありがたい札である。

 越前峠まで登った。熊野古道の最大難所といわれる大雲取越えだが大したことないと思った。
 大雲取越えも胴切坂と呼ばれる下り一方になる。長い下りを進む、石畳の所、地道では小石が混ざっていて歩きずらい、果てなく下りで,膝にふたんがかかる。若い頃、普通の山道なら時間を稼ぐため駆け下りるのだが。
 一度、浮石に足をのせてこけてしまった。体側に膝から落ちたので大したことなかった。下り坂は恐いと思った。もう少し無理をすると、右の膝と右の足のつけねが悪くなりそうだった。
 8時45分には大雲取越えを終え、麓の小口に下りた。9時にやっと食料品店が開いたので、菓子パンとかっぱえびせんを買い食事とした。小口からしばらく里を歩き小和瀬の渡場跡に公衆便所がある。そこで説明板を読んでいると、音楽を流すトラックが停まった。しばらくして、さんさんごご人が集まり食料品などを買っていた。
 小和瀬橋はガイドブックには吊橋となつていたが、コンクリートの橋が2002年に竣工している。人家の間を通って、犬に吠え立てられながら山に入る。小雲取越えは道幅も広く、大雲取越えしてきた安堵もあり、のんびりと歩いた。それでも胴切坂ほどではないが下りが続くので膝が笑いかけた。
 夕方5時過ぎに熊野川ぞいの国道に着く。本宮町の街の入口で野菜炒めライスを食べる。久しぶりまともな食事だった。
 広い石ばかりの川原の流れ沿いに女性立っていて此方を見ている。しばらく視線を感じていたが、よく考えよく見ると案山子だった。足は一本しかない、あまりにも遠くなので人間に見えた。
 大斎原(おおゆのはら)に行く。国道沿いの鳥居をくぐり一度、水辺に下り、中瀬にある森へ入る。
高い木々に囲まれた、広場には、小さな石祠二殿が中心にあった。その他にか「一遍上人神勅名号碑」
という直筆の南無阿弥陀仏の碑があり、驚いた。神社の聖地に佛者の碑があることに驚いた。暗くなってきて、碑文は読めない。そのままもとの国道に戻り本宮に行く。
 熊野本宮大社の入口につく、既に真っ暗になっており、入口にある幟などは分かるが参道の先は暗闇だ。夕方にあわただしく食事したが、改めて食べたいと思っていたが街は暗く食堂は見当たらない。本宮の門前に食料品店が開いており、そこで菓子パンとポテトチップスを買い門前の灯篭の基礎に座り食べた。
 この先に道の駅があり、(何年か前に自転車で来たことがある。)そこで泊ろうかとも思ったが、直ぐに寝たかった。今晩は雨の心配がいらなし、あまり暗い中うろうろするのも地元の人に悪いので、入口近くの参道の暗闇に入り、土の上にシートをひいて寝た。木々が空を覆った。
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# by henroseikatu | 2010-03-07 17:18 | 西国徒歩巡礼