西国徒歩巡礼 区切うち4回目

■西国徒歩巡礼 区切うち4回目■
4回目 2008年7月23日~26日
西国三十三ヶ所
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三室戸寺の蓮、もっと大きく咲く蓮もあったけど写りが悪くて

2003年から西国三十三ヶ所を一番から回り始めた。区切りうちで暫らく回っていなかったが、先月からまた回り始めた。

7月23日
先月は奈良興福寺西国九番南円堂で終えた。今回は7月23日早朝、奈良公園から歩き始める。
32キロ町中を歩き夕方やっと宇治の十番三室戸寺に着く。本堂前の広場には沢山の蓮の鉢が並べられ開花がみごとであった。あじさい、つつじも見事に手入れされ開花の時期の見事さが思われた。入山料600円だったか花を見るためなら、それも妥当かなという思いがした。
その日、宇治で銭湯に入り着替えコインランドリーで洗濯した。調べていた宇治のインターネット喫茶に電話をかけると、その電話は使われてないとのこと。そこでその晩は京都まで電車で行ってインターネット喫茶で夜を明かした。

7月24日
二日目は山の中のお二つのお寺を回った。東海自然歩道がコースに入っていてその道標もあったりしたが目標物がないので不安のなかで歩いていた。ほとんど野の中を歩くのでたまに飲み物の自動販売機があれば直ぐジュースを飲んでいた。
お寺まじかでは登山道ですがその外は舗装された林道様な道が続いていた。
十一番上醍醐寺に一時ごろお参りし、次の十二番岩間寺にもどうにか参拝した。
岩間寺を越し滋賀県大津市に入っていた。今日はもう参拝はできないけれど瀬田川沿いの次の石山寺に向けてとぼとぼ歩いていた。
その時にトラックに乗っていた男の人が声をかけてくれて、その人の家で泊まることになった。

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泊まらせてもらった男の人が世話していたお地蔵さん

7月25日
泊まらせていただいた大津市街から電車で十三番石山寺にお参りする。本堂で「源氏物語」の構想を得たということで紫式部の人形が飾られていた。源氏千年記ということで展示会が行なわれていたが、先を急ぎその展示は見なかった。。
琵琶湖沿いを歩いたが暑さにはまいった。アイスを買ったりジュースを飲みながら歩く。旧街道や東海自然歩道にそって行く。
十四番三井寺から西へ向かい滋賀から京都山科に入り、もう山門を閉じようとしている番外元慶寺に参拝することができた。
その町で銭湯に入り食事して公園で洗濯した。点滅するランプを前後につけて歩きだした。西国の地図に沿って歩くつもりだったが、夜間のこともあり道を間違い次のお寺の方向にはいけず。国道一号線沿いに東山を越して清水寺の下に出た。
そのまま山を下り鴨川の五条大橋のたもとの公園の倒した石柱の様なものに横になった。夜中前まではうつろうつろしていたが、それ以降はぐっすり寝ていた。

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清水寺、観光地とかして巡礼はかすむ

7月26日
電車で京阪東福寺まで行く。昨日迷ったので巡礼の道はつながらないのだが、そのぐらいのことは気にしない、間違えたところまでもどって歩きなおすという根性は持ち合わせない私である。
十五番観音寺は私も現地で初めて知ったのだが、皇室ともつながりが大きい泉涌寺という大きなお寺に属しているのだった。
それから十六番清水寺へ行く。ここで人出の多さに驚く、世界の清水寺ということが分かる。東南アジアからだと思う人々が多い。もちろん近隣アジアの人々もいるし、白人の方々もいた。あまり人が多くて私はちゃんとしたお参りせずにすませてしまった。
天気晴朗、盆地京都、石畳が輻射熱、清水坂を駆け下り十七番六波羅蜜寺は町中の小さなお寺だが占いが有名らしく若い女性が占いをしてもらっていた。
寺町通りを北上し19番行願寺は華やかさの見えない小さなお寺。
十八番六角堂はビルの谷間にあって憩いの場になっているようにも見えた。鳩に餌をやって喜ぶ家族があった。堂の正面に大きな赤い提灯が下げられ、建物には札などが貼られている。周囲に赤いよだれ駆けした地蔵さんがあったりする。
普通は本堂の脇で納経したりお札を貰うための場所があるのだが、ここは売場などが離れていて、気ままのお参りができる。
長椅子もあり私はゆっくりした、この後いくお寺もないし。観音経を読んお参りした。
その後、京都を下り東寺からほぼ国道171線 沿いに巡礼道をたどり向日市の阪急東向日駅前で食事し銭湯に入り着替えて帰宅した。


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六波羅蜜寺の地蔵」さんたち


10番から19番まで四日間 約96、5キロメートル 22万300歩
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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:23 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち

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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:15 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち3回目

■西国徒歩巡礼 区切うち3回目■
3回目 2008年 6月 日~ 日
記録なし
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# by henroseikatu | 2010-03-07 21:06 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち2回目

■西国徒歩巡礼 区切うち2回目■
2回目 2005年3月20日~21日
 一泊二日の予定で西国を廻る、野宿するのでテント、寝袋、礼拝用品、地図、ノートなどで約11kgの荷物となった。
 JR天王寺駅6時20発和歌山行き快速(阪和線)に乗り、和歌山から7時42分王寺行き(和歌山線)に乗る。
 途中の駅で5分の待ち時間があった。駅で停車中、ワンマンの運転士に「電光掲示板が点いていないよ」と婦人が聞くと、運転士は「二両編成は点灯しますが、この四両編成は点灯しません」といっている。婦人は運賃を払いたいようだ、両替機が運転席の後にあるが、運転士はその役にないらしく、運賃は改札口の箱に入れてくれと言うのみだ。払う運賃が分からないのにどう払えば良いのか。
 駅が近づくと毎回こんなアナウンスが流れる。「間もなく○○、全てのドアが開きます。乗車券、運賃は駅出口の集札箱にお入れください」
 私はしまったと思った。天王寺から船戸まで1280円切符を既に買っている。私の前に座っていた男の人が改札を出るのを見ていると、切符を集札箱入れた様子がない。

 8時8分船戸駅につく、切符を記念に持って帰ろうと思ったが、駅前のタクシーの事務所からこちらを見る人がいるので、切符を集札箱に入れる。今の電車で、この駅で二人下車した。お客にならないかと、見ていたらしい。
 昨日の天気予報では二日間良い天気だと言っていたが、曇りで妙に寒い。昨日が比較的暖かい日だったので寒さを感じるのいかも知れない。
 ピッチ軽やかに歩く、上半身はシャツと薄手のフリースの二枚、風に当ると寒いが歩いていくと丁度良い具合だ。
 紀ノ川を渡る。もちろん橋の上だ、河原の草は枯れ切って、地面が見通せる。
 県道14号を東に行く、大した交通量も無いので気を許し早足で先を急ぐ。
 打田町下井阪、道沿いに手書きの「西光万吉寓居跡」の看板があり、すこし路地を入ると高さ60センチ程の角柱に以下の様に彫られていた。
 「西光万吉永住の地 不戦和栄の碑 十周忌にこれを建てる 昭和五十四年三月二十日 西光万吉先生顕彰実行委員会」
 さてどんな人であったのであろう、具体的な業績が全く分からない、地元では有名な方であろうが。
 そこから、しばらく行く、と道沿いに「西田中神社」があり、そこに9時についた。広場の奥に左右いっぱいに拝殿があり、そこは土間があり,窓際に長椅子があった。そこで参拝した。トイレはきれいに水洗いされている。「昭和21年に尾崎にあった若宮八幡宮本殿が移築合祀されたもの室町末期、寛永の建立のものあり、県指定文化財」というのが由緒である。住宅街の中なのでオオッピラには無理かもしれないが、暗くなってから拝殿で寝ることは出来るかもしれない。
 道標もなかったが、道端から見て進行方向左側の低い土地に、小さな屋根の下に花がそなえていて、何だろうと下りていった。そこに井戸があり、小さな地蔵さんが何体か並んでいた。下記のような由来が書かれていた。
 
「弘法井戸の由来(通称出水) 打田町花野 昔、弘法大師が諸国を行脚して当地に来られた。夏のこととて、余りにも暑く、のどがかわいたので水を求められたが、あたりには水はなく、だれも恵んでくれる者がなかった。ところが或る老婆がわざわざ遠くまでいって水をくんで来てくれた。 大師は大変よろこび老婆の慈悲を深い心に感じて持っていた錫杖(しゃくじょう)で地面を突いたところ、不思議にも、そこから水がこんこんと湧き出てきた。これがこの井戸の由来でこの井戸はどんな日照りでも清水が湧き出て涸れることがない。そして今も花野の人々の生命を守っている。昭和六十一年十月吉日」

 県道を東進すると、やがて国道24号に合流するが、歩道は途切れ、そのまま進行は出来ない。東田中神社を過ぎたら、左の路地に入り、黄色い看板「遊季本店」を目標に行くと、そこから国道を横断する陸橋があり、それを渡ると、「歴史街道,大和街道」の道標がある。その細い裏道を道なりに行き、JR紀伊長田駅をすぎ、長田観音の本堂の脇を抜ける。そこから道を間違え、JR粉河駅にでた、そこで食道に入り昼飯とした。

 西国三番札所、粉河寺の本堂に来た。ひさしぶりの札所の参拝である。ろうそく線香をあげ、観音経を上げる。 粉河寺の本堂は西国札所の中では最も規模の大きいそうだ、大きいし、欄間などの造りものにもこっている。
 境内で気に入った歌碑を見つけた「遍路の衆の打ち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に 牧水」

 1時に粉河寺を出発、紀ノ川へ注ぐ中津川沿いに南行すると地蔵さんの脇にこんな看板があった。

 「慈悲の心は人と物との間に気を通わせるの・・・、牛が売られよるとき赤飯こしらえてお別れしよるでな。牛の方でも運命がせまってるちゅうて感じよって啼きよるの顔そむけよるの、中国では明日豚買いがくるっちゅう前にその気が意気が通うんやろうね。豚が啼きよるの。豚が啼いたら金もうかる、ちゅうてな。そやよってね、この気の通いというつよい力を忘れてはいかんな。
 それがわかったら仏さんに自分が通じあい、人間同士、気が通うことが、つかまえられる。動物や魚かて、人間に会わなんだら殺されるにすむ、その殺されずともえものを殺して喰う人間に、あ可哀そうにという気持をもたせる。それが仏教なんやね(大西良慶師)

 道沿いの工場のような建物の前に、こんな句碑があった

        つばくろや熔接灼けの顔あげる     北田和彦
        洗車水吹きもどさゝる年の暮   63歳 北田和彦

 粉河から国道24号にそった大和街道を東進する。途中、旧名手本陣の屋敷を見る。穴吹からは紀ノ川や国道24号線を離れ山の中へ向う、これから先、食料品店はないと思うので、国道を10分もどりコンビニで晩飯のお握り、パン等を買う。
 国道480号線を北上する。国道といっても幹線道路ではない、ほとんど車は通らない。5時頃に道は東谷というバスの終点に着く、そこに男の人がいた。山から下りてきてバスが来るのを待っているそうだ。

 暮れかかってくる。野宿場所として考えていた定福寺は村落の中にあり、かってに泊れない、そこで懐中電灯を用意した。それから林道として車も通る山道を歩いた。
 テントの張れる場所を探して暗闇を歩く、ほとんどの時間電燈を消して歩く、舗装されているので苦ではない。七越峠茶屋跡にテントを張ることにした、7時20分に成っていた。
 食事して、服を着こんで寝袋に入った。寒くて夜中に何度か起きた。ズボンの右脚が湿気を帯びてくる。地面の湿気が伝わったのだろうか。
 4時30分起床、テントをたたむ、朝露は落ちてない、テントの底面も感想している、寝袋は少々湿っぽいが、夜中の湿っぽさは無くなっている。こんな経験は始めてだ、外気が冷たいので私の体温でズボンが濡れたのだろうか。
 真っ暗、樹木が鬱蒼と道の分だけ空が開け、星てんてんと、暗い中の風景、暗いなりに見えている景色

 七越峠茶屋跡を5時30分に出発する。そこし上ると外灯が明るい、暗い中定福寺からずっと歩いたが外灯は一つもなかった。不思議に思いながら、さらに上ると三国山の標記があり、ビルが現れた。このビルは「三国山航空路監視レーダー局舎」、この施設のおかげでここまでの道が舗装されているらしい。付近に「対空送信所」「対空受信所」もありこの間の道路は簡易の歩道まで付いた車道になっている。
 「対空受信所」から谷側に少し降りると、「七大龍王」の小さな社があり、そばに畳敷きの一戸建てがあり、非難小屋としても使えるようだ。

 この道ダイヤモンドトレールとも呼ばれる登山コースになっているので道標はしっかししている。
 弘法大師求聞持所として藁葺きの虚空堂はあり、軒下で休むこともできる。

 9時施福寺に着く。
 お参りしてから、納経所に納経帳を出してから、財布を捜そうとしたら中々出てこない、「どこいったかな」と私がいっていると、寺の人は朱印を押したままで手をとめている。そして財布がでてくると墨書を始めた。私は悪く考え、金がなければ墨書はしないつもりだったのではと思った。
 
 それから、何も考えず、そのまま参道を下った。
 よく分からないまま長野方面という標識でそのまま下り、「槙尾山口」というバス停にでた。そこにいたバスの案内員に聞くと、私は別の方向に下山していたことが分かった。

 後から、「佐藤孝子」さんの本を読み返して分かったが境内トイレの前から滝畑ダム方面へ行かなければならない。出発直前に呼んだ本に参道のことが書かれてあり、そこを通ってしまった。

 バス案内人に聞いて国道170号線で河内長野に向かう。
 


















 


 
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# by henroseikatu | 2010-03-07 20:58 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち1回目-2

■西国徒歩巡礼 区切うち1回目-2■
1回目 2003年4月29日~5月7日
●4日目(2003年5月2日)熊野本宮大社から近露王子まで 歩行距離約24.4km
 近くでお経か、祝詞か上げている。それを聞いて、暗いうちから起きだした。昨晩とは違う大鳥居の方から大斎原にはいる。高34メートルの日本最大の鳥居だそうだ。「皇紀2661年 大いなる船出 日本第一大鳥居建立の意義」と最もらしいことを書いてあったが。後から聞くと皇紀2661年とは西暦2001年とのこと、ミレリアム記念の大鳥居だと分かった。
 熊野三山のうちビジアル的に本宮が優れていると思った。八咫鳥(やたがらす)の大きな幟が入口にあり、鳥居をくぐり参道の階段を上る。両脇を「奉納熊野大権現」の幟が立ち並ぶ。
 登りきると拝殿や社務所があり、その先の門をくぐると社殿がならぶ、桧皮葺で木肌のままの落ち着いた社殿です。
 夜が明けると、参詣者はきていた。お守りを売る窓口は空いていないので、その辺りで待つていた人もいた。社務所の開くのを待てず帰る人もいた。七時を回ると拝殿にアンプなどが運び込まれ、8時前に社務所で神官らが集まりミーティングしている。8時からつづみに電子ピアノの伴奏で奉納された。やっと社務所が開き参詣者が、御守り御札を求めていた。 

 拝殿は四つあり、どこからお参りすれば良いのか分からないので、神官に聞いた。そうすると入って正面に当る第三殿が主神なので
第三、第一、第二、第四の順番でお参りするとのことだった。第三殿だけは他とは独立してはいたが小さな社殿だったので主神だとは思わなかっ。聞いてよかった。見ていると、第三殿からお参りする人もいるが、第一からお参りする人が多い。

 つづみの奉納を指揮していた神官に、質問した。
 熊野三山のうち熊野速玉大社が全国熊野神社総本宮と言っているが(私の見たところ、他の二社では全国熊野神社総本宮との表現は見なかった。速玉大社では案内板やお札に明示されていた。)御社も速玉大社に属するのですか。と聞くと「本宮は本宮で那智は那智で総本宮と言うし、そこの所は深く追求しないほうが良い。」と言われた。
 大斎原に仏経徒の一遍の碑があることに驚いた、空海が在来の神を仏経に取り込んで本地垂迹を取り入れたのではないか、神社の方ではどう思っているのか。と聞くと「元々、本地垂迹である熊野権現をお奉りしているし、信仰の目を向かせるために本地仏の力を借りた信仰の目が開いてくれれば良い、ついこの間まで明治維新までは神仏混合だったのだから」と言われた。
 神だ仏だとわざわざ分けて考える必用はないのかも知れない。

 九時に成っても宝物殿があかないので、さいそくして開けてもらった。先を急ぎたいけど宝物殿が空くのを待っていたのだ。小さい手提金庫を持って来た若い神官は、「何もないですが、明治の洪水で流されて大したものはないのです、入館料三百円貰うのですがよろしいですか」と言った。私は思わず、そんなこと言っちゃあだめじゃないですか、と言った。
 境内の裏手に抜け熊野古道をたどる、伏拝みあたりにくると、王子めぐりらしきグループが多くなる。ほとんどが私の対面からくる、ガイド付き王子の説明をしている。このあたりは茶畑が続き、茶もみしている姿も見られた。雨が予報どうり降ってきた、私はカッパを着る。田園風景だ、田んぼに水がはられている。
 「ほんまもんロケ地」と言う看板が目につく、観光客目当ての売店もだしている。
 山に入ると木々にさえぎられ雨が降りかからなくなった。

 このあたりでは、団体は見られなかったが、男女の二人や数人ずれのグループがあった。だいたいは私と反対の方向に進んでいる。
 めずらしく私と同じ方向に行く人がある。大きなザックをしょつた若い男女だ、地蔵さんを見たり野草を写真に撮ったり、他の人とは違いゆっくりと歩いていく。お先にと言って私が先に行く。また、やはり彼らが歩き出すと私より速いようだ、後先に成りながらしばらく歩いた。その男女と三越峠で雨宿りしながら食事をした時に少し話しをした。その男女はテントも持参しているそうだ、まだ今日泊るところは未定だそうだ。
 ここまで山道が主だったが小広王子からは車道を通るようになる。継桜王子では休憩所マークがあったが、東屋を確認できず、また周辺に民宿や住居があり、ここでの野宿をあきらめ、継桜王子への階段を登らず、野中の清水へも寄らず、先を急ぐ。直ぐ下の並行する道路に食料品店があった。これまで住宅が多くあるところを歩いてきたが、店屋はなっかった。そこでりんご、ソーセージ、ポテトチップスなどを買った。そこで巡礼をしていると話すと驚かれた。和歌山の紀三井寺まで歩くことをはなす。
 近露(ちかつゆ)までゆくと、そこは旅館が多くあり、酒屋なのか店先で酒を飲んでいるようだ。温泉の表示もあった。そこで昼間にあった男女にあった。「これから、どうするか考えている」とのことだった。そのあと彼らは自動車に荷物を積んでいた。歩いていく仲間だと思っていたが。どうも違うらしい。近露王子を見てから川沿いの便所に行くと、駐車場に東屋があった、しかしそこにはキャンピング車があり、食事を取っていた。そこでの野宿をあきらめ川沿いを歩いていくと向こう岸の橋の下に広場があり、寝られそうだ。天気予報では今晩も雨が降るようだ。橋の下に行くと、そこは何かの作業場か板が敷きつめられていた。寝るのは丁度いい、まあ大雨が降れば、橋の排水が上から降り注ぐし、風が出れば雨が降りつけるのわかっていた。いつも下にひくシートで寝袋包むようにして、その日は寝た。

●5日目(5月3日)近露王子から田辺まで 歩行距離約38.3km
 昨晩寝る頃になり、細い雨が降ってきたが。それだけで強い風も吹かず濡れずにすんだ。
 四時頃から起き、歩きだした。

 滝尻王子につく、今日はずっと山の中を歩いていてまともな食事をしていない、ここで食堂へと思っていたが、お土産やしかない、お弁当もだんごも売り切れでした。でもここで、お経を書いた菅笠を手に入れた。商品としては菅笠に熊野古道と書いてあったが。店頭にかざっていた経の菅笠を貰った。
 やっと巡礼らしくなった。上下白い服装で金剛杖は持っていたが、本当の巡礼に見えるだろう。
 滝尻からは富田川沿いに清姫の墓などを通り南に行く、松尾寺さんの地図では川の西側の道を行くようになっているが、私は河と渓谷社の地図の熊野古道をたどり清姫の墓のさきで吊橋をわたる熊野古道の道をいった。
 稲葉根王子から古道に入ろうと思ったが道標は民家の庭先を指し、その先が行けるのか分からず、犬に吠えられるし、トンネルを通った。住宅地を通り田中神社、八上神社までたどり、それからは車道を先を急いだ。熊野古道の道からだいぶ外れている。
 そのころ雨が降り出した。田辺の駅前まで行こうと思っていたが、国道沿いにビジネスホテルがあった。すでに暮れかかっている。そのビジネスホテルに泊ることにした。
 ホテルでシャワーをあびてから買い物に行った。このあたり郊外大型店舗が連なっていた。また明日は雨との予報だったので傘を買い、少し遠いがフロントで聞いたコインランドリーで洗濯をした。それから食事をしようと思ったが、どこも閉店となっていた。大型スーパーも閉まっていた、何処も八時で閉店らしい。開いているのはパチンコ屋と本屋で、コンビニをみつけ、夕食とした。

●6日目(5月4日)田辺から印南町津井王子まで 歩行距離約28.7km
 バイキングの朝食はサービスだというので、開始の6時半を待つて食事して、出発した。
 雨は殆んど降っていない。国道42号線沿いに行く。南部大橋を渡ると国道は歩道が無い急坂が続くそこで左の側道に入り、すぐ左に折れ「梅平の梅」の工場前を通りJRのガードをくぐり坂を上っていく。上りきると突き当たるので左に折れる、そのまま直進すると、やがて展望台につきあたる。展望台の脇を降りると千里観音堂へ行ける。
 千里観音堂にはケビン風の小屋何軒もあり、シャーワーの設備もあった。夏には海水浴の人が集まるのではないか。その日には人影がなかったが、トイレが有り、水が使えた、また公衆電話も置いてあった。隣の敷地の千里王子がある。
 境内の先には砂浜が広がっている。砂浜を西に行くと浜辺に沿って走るJRの下を抜けるトンネルがある。「熊野古道」の地図はここから山側に抜けている。
 私はしばらく砂浜を歩いてみたいので海岸線をずっと歩いた。「古道徒歩巡礼地図」では海岸線を道が続いていた。砂浜は丘にさえぎられている。私はもしかして磯ずたい先に行けるのかと思い、丘を回り込んだが、岩が海に落ち込んでいて歩けず、先の海岸線は高い要壁の上を線路が続いている。浪打際を歩けそうもない。
 「古道徒歩巡礼地図」を改めてみると、線路上歩くようになっている。私は丘の手前で線路を渡つた。そこは運動公園で、道なりに上り、切り通しを過ぎると線路沿いに道が続いていた。
 岩代王子に行ってから、線路の海側を、しばらく戻ってみたが、道は続いていなかった。道を探しながら、だいぶ時間を使ってしまった。砂浜を歩くということばかり考えていたら、危険な事に合う可能性もあったと思う。
 国道から離れ畑の中を上って行くと、花を作っているビニールハウスが立ち並んでいる。ここで目新しい船形地蔵の道標があった。「右 き三井寺 これより十四り」と表示され、あざやかな切花が山ほどそなえられていた。道標が少ない所に新設してくれて、ありがたいことです。
 ここで犬が近づいてきた。愛想があまり良いので、私は「こんにちは、はじめまして・・・・・・」と話かけながら、首筋、背中、腹となであがた。私が歩き出すと、後をつけてくる。帰れと言っても、なかなかいなくならない、いつまでもついて来る。首輪しているし、この辺りの飼い犬だと思うのだが。しかたなく手を上げて追いかける。しかし逃げない、何度もそんなことを繰り返した、こちらが本気でないのを見抜いている様だ。仕方なく棒で小突くと「キャン」と逃げて姿を消した。しばらくすると、のこのこついてきた、帰るところがないのだろうか、棒を振り上げ追いかけると,素早く逃げた。二三度続けると、それっきり姿を見せなくなった。
 榎木峠にさしかかるころ雨が降り出した。大降りでカッパを着た。中山王子神社につくと境内へ入り口は雨宿りのできる立派な屋根がある。座れる,寝れる座敷があり、電灯もあり、水もあったので、ここで宿泊しょおとも思った。神社の前を軽自動車が通ったので,地元の人の目があるのだと思い。明るいうちに留まるのは良くないと思い先に進むこととした。
 切目駅でジュースを飲みながら休んだ。寝る場所の当てもなく先に進んだ、暗くなり飯を食べたいと思ったが道沿いに食堂は見当たらない。印南港を過ぎて港を見下ろせる岬の先にラーメン屋を見つけ、野菜炒めライスを食べた。

●7日目(5月5日)印南町津井王子から湯浅まで 歩行距離約39.7km
 昨晩はパラパラ降っていて、1メートルもない軒下なので雨に吹き込まれたら、どうしようと思っていたが、たいした雨には成らなかった。それよりも暗闇の中を、時々通る自動車のヘットライトが顔に当たり、見られているようで落ち着かなかった。寝る場所は道路からへっこんでいて、一瞬しかライトは当たらないので、車からは気ずかないと思うのだが。
 4時まだ暗い内から歩き出す。ときどき通る車はスピードを出している。街灯をたよりに歩き、車の音が聞こえてくると懐中電灯を点けた。暗いうちは古道に入らず国道沿いを歩く。
 清姫草履塚のすこし手前、国道の東側に面して「十三塚之碑」があり、巡礼者の供養塔なので勤行を上げさせて貰った。宝筺印塔を中心に五輪塔が並んでいる。熊野参詣の羽黒山の山伏一行が、ここで海賊に殺されたのを地元の人々が憐れみ供養を始めたそうだ。無念だっただろう、神も仏も無いと思ったのではないか。長いこと供養してくれて、ありがたいことだ。
 祓井戸観音のお堂は解体されコンクリートの土間だけが残っていた。再建されるのだろうか、付近には何の掲示もなされていなかった。
 塩屋王子跡である塩屋王子神社は「美人王子」という幟が目に付いた。主神の天照大神が美男なので、それにあやかり、美しき子が授かると言われ,若い夫婦の参詣が盛んであるとのこと。

 道成寺への古道からはずれ御坊駅で昼食をとった。そういえば朝飯をくっていなかった。
 それから道成寺に向かわず近道をすると色彩鮮やかな宮古姫の像を見つけた。宮古姫は髪長姫とも呼ばれ、母親の犠牲により丈なす黒髪に恵まれ、天皇の妃までに成った地元の女性で、これが女人開運を祈願する道成寺縁起だそうです。碑文で有吉佐和子は「最近は安珍清姫の火の恋ばかりになっているが、髪長姫の物語の方が、はるかに美しく思われますし好きなのです」と書いている。
 高家王子跡のある内原王子神社には、こんな神拝詞が掲示してあつた。

 「掛けまくも畏き大神の大前を拝み奉りて慎み敬ひ白さく、萬の禍事、非穢あらむをは、祓ひ清めて、心にかえる雲もなく大神の御教へのまにまに直き正しい真心もちて、誠の道に違ふことなく負ひ持つ業に励ましめ給ひ、家も身も健かに栄えしめ給へと恐み白す。」

 私が本で知っていた祝詞の中には「天皇を仰ぎ奉り」という言葉があり、私には抵抗感があり、すんなり読もうとは思えなかった。
 必ず入って入るもんだと思い込んでいたが、そうでもないことが分かった。

●8日目(5月6日)湯浅から海南 歩行距離18.4km
 3時30分に起き出した.野宿した軒下から駅前交番が良く見えたが、夜中には人影はなかった。私が荷造りしているとパトカーが来て交番の二階の電灯が点いた。近くのトイレで身繕いして5時30分に歩き出す。湯浅市街には熊野古道の表示がそこここあった。
 逆川王子社の近くで道を間違え、だいぶ遠回りして国道まで出て間違えに気ずいた。そのまま逆川王子社までもどる。糸我峠をこしたところに「くまの古道歴史民俗資料館」があり、ぜひ見ておきたいので.時間調整しながら、ゆくりきたが、ここで時間を使いすぎた。
 道は舗装されていた、日が輝き汗がふきだした。みかん畑の間に糸我峠があった。湯浅の街はずれから糸我峠まで風景画が各所に掲示してあった。土地の風景であったり、昔の風俗を描いたものであった。それもコピーではなく原画そのまま画用紙やパネルをガラスで被っているものだ。
 糸我峠を下りきって、糸我稲荷神社の隣の「くまの古道歴史民俗資料館」に行くと,休館であった。毎週水、木が休館日であった。ぜひ見たかったので、残念である。
 ガッカリして歩いて行くと整備された境内のある得生寺があった。得生寺にはこんな言われがある。「紀伊国有田郡雲雀山中で、中将姫を殺害せんとした武士伊藤春時は姫の徳に打たれ殺害することが出来ず、名を『得生』と改めて姫をお守りすることになった。」
 ちょうど境内では背丈ほどの花道が組まれているところだった。これは中将姫のご命日にちなんで毎年5月13、14日に行われるご来迎会式のためで、子供たちが菩薩に扮する「二十五菩薩練供養」である。
 宮原の市街をぬけ有田川を渡る。宅地のわきに伏原の墓がひっそりと墓石が並んでいた。

●9日目(5月7日)海南から紀三井寺を通りJR船戸駅まで 歩行距離約24.5km
 今まで熊野古道の王子めぐりの地図を主に見てきたが、ここから熊野古道をはずれ紀三井寺へ向うので、松尾寺発行の「西国三十三ヶ寺徒歩巡礼地図」を見ることにした。
 黒江の町並みを通り、和歌山に入り、亀の川を渡ったら大通りを直進せず、最初の信号で右側の道に入る。(私はここで直進してしまつた。後で地図で確認しなおし間違いに気ずいて、後戻りした。)
 道なりに進むとやがて紀三井寺の門前町になり、お土産屋が並び観光地の雰囲気になる。西国一番の青岸渡寺以来のにぎやかさである。

 入山料50円を払い、紀三井寺の山門をくぐる。長い階段を上ると山腹に本堂などがある、見晴らしのよい境内が広がる。
 海を見晴るかすベンチに荷物を下ろし、腰をかける。しばらく休み息を整えてから参詣の身支度をした。本堂でたどたどしく観音経を唱えた。何人か参詣者はいたが巡礼らしき人はいなかった、いずれも観光の人らしかった。
 納経していると、白衣等の巡礼の装束はしていなかったが、自転車で巡礼しているという60代だろうか男の人にあった。この巡礼で初めて会話した巡礼の人だ。
 四国に比べて道が分からないと嘆いていた。四国遍路は一度は自転車で結願し、後はバスツアーで何回も回っている。今回はじめて西国を廻っている、との事。

 本堂の地下にある宝物を見せてもらい、他のお堂などをみて回った。真新しい塔があつたので三百円払い塔に上った。上まで上がり、ここは納骨堂だとやっと分かった。この何も無い大きな吹き抜けに、やがて巨大な観音様が鎮座するらしい。そして、ここまで上れば観音様の御尊顔を拝めるらしい。
 境内で掃除をしていた、おばさんに記念写真のシャッターを押してもらう。その時に、那智から歩いて来たと言うが、なかなか信用してくれない、「電車に乗ってきたんでしょう」と言われる。そういえば、歩き通したという証明は何もない。

 今朝はまだ食事をしていなかった。海南の市街を出るとき方向を間違い時間をくい、先を急いだからだ。少し早いが門前の喫茶店に入った。
 オムライスとサラダを頼む。マスターに「巡礼ですか」と話しかけられ、歩いて巡礼していると言う。「最近は歩く人も多くなっています」と言われる。
 毎度の事だが、旅の終わりがくると里心が出てきて、早く家に帰りたくなる。今朝は紀三井寺を御参りしたら直ぐに、大阪に帰ろうと思っていた。しかし、まだ昼前だし次の巡礼のために少しでも先に行くことにした。
 寺から山門を出て、直ぐ右に折れる細い道に入る。山の麓の道だ。紀三井寺の裏門を通り、道なりに進む。すると、住宅街の中に寺名の由来の一つの「吉祥水」の上り口がある。階段を上る。左側の斜面には住宅が連なり、右側は藪になり、その下には吉祥水からの水が流れている。

 吉祥水の並び、少し行った所で壁越しに宝匡印塔があつた。門を入ると墓石が並んでいた。宝匡印塔を見ると「西國三十三度 ?塔」という文字がはっきりと確認できた。
 今まで道すがらお寺や墓地を見かけると宝匡印塔等などの文字を読もうとしたが、風化により文字を確認することが出来なかった。ここで始めて確認できた。
 これは「西国三十三度供養塔」と言って、西国三十三ヶ所観音霊場を三十三回巡った行者が満願供養を記念して建てたものである。
 (後日、T氏の調査により、この供養塔は新発見のものであり、付随文書もあることが判明した。)

 いつのまにか地図とは違う道を歩いていた。高速道路を目当てにして歩き、鳴神団地で地図の道に戻った。しかしまた「紀伊風土記の丘」という公園の所で道を間違えた。
 どうも地図を読み取るのは難しい、良く分からないと感で進むので、道を間違える。四国遍路では案内板、道標が多くあり、すぐに現在地を確認できる。しかし西国の市街地には、道標はないと思った方が良い。
 現地の人に聞くとまず、紀ノ川の堤防沿いのみちを薦める、地図の巡礼道とは違う。(分かりやすい道を教えてくれるのではないか)
 地図に薄く小さく印刷されている地名を読み取れば、良いのは分かっているが、あわてていると目が集中できない。

 その日はJR和歌山線の船戸駅まで歩いて電車で大阪に戻った。
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# by henroseikatu | 2010-03-07 17:47 | 西国徒歩巡礼

西国徒歩巡礼 区切うち1回目-1

■西国徒歩巡礼 区切うち1回目-1■
2003年から09年にかけて7回に分けて西国三十三ヶ所を巡拝した。 
1回目 2003年4月29日~5月7日
文章を一生懸命書いたのは最初だけになってしまいましたが、そのときの記録をここに公表します。


西国巡礼① 1番から2番

 四国八十八ヶ所の霊場は徒歩野宿の区切り打ちで二回結願している。大阪から、わざわざ四国まで行って遍路したわけだが、地元大阪には西国三十三ヶ所の霊場がある。しかし西国は近畿いちえんに霊場が散らばっていて、徒歩で廻る情報は少なくちゅうちょしていた。
 今、仕事の関係で長い休暇が取れないので、とうぶん四国遍路には行けそうもない。でも西国巡礼なら週末ごとに廻れそうだ。
 そこでゴールデンウイークの連休を使い、札所間の長い1番から2番を歩き、後は週末を使い巡礼して行くことにした。
 昔の人は、自宅から歩いて巡礼を始めたが、わたしは電車で現地に行く。西国だけではなく、この機会に熊野三山を廻ることにした。JRで紀勢本線の新宮まで行く。

●1日目(2003年4月29日)熊野速玉大社から那智駅まで 歩行距離約14km
 4月29日早朝、JR天王寺駅を6時41分発の和歌山行きの普通電車にのった。普通を三回乗り継ぎをして新宮に午後1時42分に着いた。
 駅から泥層の上に浮く「浮島の森」により、熊野速玉大社に行く。わりと地味な境内で、拝殿には本地仏である仏像の掛け軸もかかっていた。神社の中で仏像の掛け軸が珍しく思えた。
 御朱印を貰うと「神倉神社の御朱印も、ここで押しますがどうですか」と神官に言われた。隣のご婦人方は同じようなセールスをされ断っていた。私は神倉神社までの行き方を聞きたかったので、神倉神社の御朱印もお願いした。
 次の目的地青岸渡寺の方向と同じなので神倉神社に行くことにした。少し国道沿いに歩き、山に向うと鳥居があった。とても急な石段が続く、それも自然石を使った大小ガタガタする歩きずらい石段だった。階段を上りきると右側に岩盤が現わる。左側は視界がひらけ新宮市内が一望できる。小さなお社がゴトビキ岩にへばりつく様に設けられている。このゴトビキ岩と岩盤の裂け目は、女性の○○だとのこと、しばらく見つめていた。
 ここの下りは恐い、凸凹した石で不定形に作られているので、足を滑らせたら大事になりそうだ。この石畳を松明を持って駆け下りる「お燈まつり」があるそうだ。

 それから国道沿いに、歩いた。王子跡や古道もあったが、それらによらず、ひたすら那智に向けて前に進んだ。夕方になり、考えて見ると、昨晩使っていた懐中電灯を、今朝ザックの中に入れた覚えがない。ザックの中を確かめて見ると、やはりなかった。
 スーパーを見つけ、そこにただ一つ残っていた単1を二本入れる防水懐中電灯を買った。そこでザックの後に百円ショプで買った自転車用のピカピカひかるテールランプをつけた。胸には反射するたすきを掛けた。ザックの肩ヒモに吊るした胸の前にあるカバンには元もと反射板がついている。
 人家のあるところには歩道や、路側帯があるが、そのほかは歩行者のことを考えていない道である。
 夜八時前にJR那智駅付近に着く、今朝電車で通過したときに、海辺に公園があり野宿できるかも知れないとチェックしていたところだ。
 駅前に食堂はない(さっきのス-パの近くにあったが)どの店も締め切って寝る時間だ。やっと見つけた酒屋でポテトチップスとカステラ風の菓子を買い駅で夕食とした。
 駅に隣接して温泉「丹敷の湯」があって600円で入浴した。カランは6組しかなかったが、浴槽は大きくて、入浴者もボチボチで、気持ち良く湯につかった。
 風呂から上がり、しばらく駅で座りながら、ここで寝ようかと考えた。天井は高くガランとした結構広い無人駅で、長椅子がゆったりとした間隔で4組ほどならんでいた。その紀州材で作られた真新しい長椅子は、熊野古道のキャンペーンで贈られた物だと思う。紀勢線の各駅のホームにも置いてあった長椅子だ。長椅子とは言いながら二つの仕切りがあり、その上に横になることはできない。
 駅で寝るなら土間に寝るしかないし、最終の電車が11時過ぎにある。疲れていて、直ぐに横になりたい。
 そんな訳で、さっき見当をつけていた暗がり行くと、どうも神社らしい、拝殿の軒下の縁側にシート、マットを引き寝袋に入り寝た。真っ暗闇なので周囲が気にかかることなく寝入った。

●2日目(4月30日)熊野三所大神社から地蔵茶屋跡 歩行距離約15.4km
 気がつくと空は明るくなっていた。あわてて荷物をまとめた。神社には早朝、お参りや散歩に来る人がいる。神社の軒下で寝たのを近所の人にあまり知られたくない。
 昨晩はわからなかったが、私が寝た場所は熊野三所大神社と呼ばれている立派な神社で浜の宮王子社跡でもある。隣には、ぜひ寄って見たかった補陀洛山寺があった。補陀洛渡海した僧侶の名が刻まれていた。再現された渡海船があるらしいが、早朝なので見れなくて残念だった。
 那智の滝まで、熊野古道の標識をたどって王子跡に寄りながら、畑を見て、民家の間を進んだ。私は四国遍路と同じく「おはようございます。こんにちわ」と声を掛けながら歩いた。「尼将軍の供養塔」へ行く標識があった。供養塔へ行くのに時間はかかるのか、今いる場所は、この地図の何処なのか、知りたかった。ちょうど出てきたおじさんに声をかけると、地図が良く見えないとメガネを取ってこられ、説明を聞かせてくれた。尼将軍の標識を地図にチェックだけして、勧められた旧道を進んだ。
 ちょっと高台の開けた場所から、大門坂への上りがはじまつた。

こんな立て札が立っていた。
    告 入山心得
   熊野の神社佛様は大自然そのものです。古道を歩くとき、次の約束を守って下さい。 
   ●持って来たもんはぜんぶ持って帰ってよ。
   ●残していってええのは足あとだけやで。
   ●持って帰ってかまんのは土産と思い出だけやで。
         火の用心   那智山商店会

 巨木と一緒に私も記念写真を取りたかったが、まだ朝はやいから頼める人はいない。上り口の夫婦杉だけを写真に撮った。巨木がつらなるなか、古くからの石畳の階段を歩いていく。雰囲気は江戸時代だ。息を切らせて上った。そんな長くはなかった六百メートル程だそうだ。石畳が終ると直ぐ、売店が並ぶ参道に入る。
 階段を上っていくと神社と寺と分かれるので、私は右の青岸渡寺の山門をくぐった。直ぐに本堂の軒下にあった椅子にザックを下ろし、しばらく息を整えた。
 たらない巡礼用品を本堂の中の売店でそろえる。金剛杖(2000円)納め札(200円)白衣(ここでは長袖の笈蔓と言う1500円)輪袈裟(四国と同じように、西国三十三ヶ所と書いてあるのかと思っていたが、那智山青岸渡寺としか書いてなかった2000円)納経帳(墨書、朱印済み2000円)。菅笠や手甲はおいてなかった、白衣はLが欲しかったが、ワンサイズしか置いていなかった。そして白衣の生地は遍路用品として一般的に手に入る物より、薄く良くない。
 納経帳は「お祓いずみ」として墨書、朱印が押してあつた。納経帳に日付を入れるという、私はお参りしてからと言いそれを断った。四国遍路では基本的に納経帳に日付を入れないが、西国の納経帳には日付の欄がある。どうも、前もっての墨書朱印には、有り難味がない。良かったのは小型の納経帳があったことだ、おおさかの仏具屋では大型のしか置いていなかった。
 身支度をして、本堂に入りなおす。お坊さんやお守りを売る女性が立ったまま「お疲れ様でした。」等と参詣者に声をかけている。四国遍路では見なかった光景だ。私が経を読んでいた時には、お坊さんが参詣者に寺の来歴を説明していた。
 私は、とてもたどたどしく観音経を読んだ。内容や繋がりを考えられず、次々の漢字を読むだけで精一杯だった。そのたどたどしい恥ずかしさを思い、周囲の人を感じて、経に集中できぬまま、長い観音経を読み終えた。
 本堂内を見てまわって「オセタ」を見つけた。三十三度行者が背負って巡拝した箱で、三十三ヶ寺の御本尊を奉ってある。その行者は33回の西国巡拝をもって満願とし擬似葬儀し生まれ変わりの儀式をした。

 それから那智御滝まで下っていった。寺の参詣者より人が多かった。寺にはいなかった団体客が何組も、次々に来る。車道から滝までの急な石畳の階段に尻込みして座り込んでいる人もいた。下りきった広場から133メートルの滝を見上げる。本で見た金幣が見えた。
 ここに飛滝神社の社務所があり、「お滝拝所(お滝水滝つぼ近く)片道2分程でいけます 御参入料300円」と書いてあった。
 長らく御参入しようかどうか考えた。ここまで下ってくる間に青岸渡寺の三重の塔に200円払い上ったが大した事はなかった。しかしもう一度これるか分からないしと思いながら。結局300円を惜しんでお滝拝所には行かなかった。(大阪に帰ってから、この文を書きながらお滝拝所に行けば良かったと思いだした。)
 10時頃土産物屋で今日始めての食事をした。土産物屋ばかりで食料品店を見つけられず、お土産屋で飴と饅頭を一箱買った。
 熊野那智大社は朱塗りの社殿で、御朱印と熊野牛王を貰った。

 青岸渡寺の鐘楼横から熊野古道の道が始まる。「那智第二瀧1.5km 第三瀧1.7km」の標識があり、見
に行こうか迷ったが結局先を急ぐということで、そのまま歩いた。直ぐに整備された、東屋もあり、芝生の斜面が広がる、長い長いスベリ台がある那智高原公園の中を通過する。
 登立茶屋跡で反対方向の本宮から来た8人位の登山の服装をした中年男女とすれちがった。ガイドが引率し、宿泊しながら熊野古道を歩いているようだ。
 3時30分に地蔵茶屋跡に着く。沢が流れて、東屋がある、そして立派な便所がある。林道が通っていて、プレハブの小屋がある。さらに言えば山火事の為か消防につながる非常電話が設置されている。
 この先にも休憩所はあるらしいが、水はなさそうだ。少し早いけれど、寝床はここに決めた。昨日は風呂に入ったが、洗濯は出来なかった。着替えは一組しか持っていない、沢で洗濯をすることにする。
 那智の方から青年が下りてきた、私のいる東屋を通り越し地蔵堂の前のベンチでゆっくりしていた。

私は心の中で早く先に行ってくれと願った。私が洗濯をしだしてもベンチに横になっていた。
 私は彼の側まで行って、どこまで行くのテント持っているの、と声をかけた。彼は「ここならテントを張れると聞いてきた、小口自然の家に電話したら泊れないと言うのでテントを持つて来た」と言った。私はテントを張ると朝露で濡れたり,しまうのに大変だろう、良かったら東屋で一緒に寝ませんか、と言った。彼は「決心がつかずにグズグズしていました。明日のこともあるから、もう少し先まで行って見ます。」と言った。
 この日、シャツ、パンツ、靴下を沢で洗濯した。その晩、少し風があり、洗濯物は朝までに乾いた。
東屋の隣にある便所は暗くなってから人が近づくとパッと電燈が点く仕掛けになっている。

●3日目(5月1日)地蔵茶屋跡から熊野本宮大社 歩行距離約29.3km
 空が白みはじめた、4時30分出発、ほどなく石倉峠に着く。5時45分、越前峠に着く、最大の難所と
書いてあったが、上り一辺倒だったが、足場が良く、なんなく登れた。

 四国遍路では山中の遍路道にハガキほどの大きさで道標や励ましを書いた札が吊るしてあった。熊野古道では見かけなかった、しかしあつた。「西国観音巡礼 念彼観音力 四国鯖大師 沙門明善」と四国遍路で見かけた鯖大師の札だ。
 熊野古道は西国巡礼としての標識は少ない、巡礼として歩く人は見かけないし、ほとんどの人は私とは逆の方向に進んでいる。だから、ほとんどの標識は私の行く方向とは逆を指している。(それで、標識の設置場所により、標識が認識しずらい事がある。)
 数は少ないが西国巡礼の標識は一種類あった。直径12cmのプラスチックの札に「西国三十三ヶ所巡礼道」と矢印がある。熊野古道とは反対方向を指していて、ありがたい札である。

 越前峠まで登った。熊野古道の最大難所といわれる大雲取越えだが大したことないと思った。
 大雲取越えも胴切坂と呼ばれる下り一方になる。長い下りを進む、石畳の所、地道では小石が混ざっていて歩きずらい、果てなく下りで,膝にふたんがかかる。若い頃、普通の山道なら時間を稼ぐため駆け下りるのだが。
 一度、浮石に足をのせてこけてしまった。体側に膝から落ちたので大したことなかった。下り坂は恐いと思った。もう少し無理をすると、右の膝と右の足のつけねが悪くなりそうだった。
 8時45分には大雲取越えを終え、麓の小口に下りた。9時にやっと食料品店が開いたので、菓子パンとかっぱえびせんを買い食事とした。小口からしばらく里を歩き小和瀬の渡場跡に公衆便所がある。そこで説明板を読んでいると、音楽を流すトラックが停まった。しばらくして、さんさんごご人が集まり食料品などを買っていた。
 小和瀬橋はガイドブックには吊橋となつていたが、コンクリートの橋が2002年に竣工している。人家の間を通って、犬に吠え立てられながら山に入る。小雲取越えは道幅も広く、大雲取越えしてきた安堵もあり、のんびりと歩いた。それでも胴切坂ほどではないが下りが続くので膝が笑いかけた。
 夕方5時過ぎに熊野川ぞいの国道に着く。本宮町の街の入口で野菜炒めライスを食べる。久しぶりまともな食事だった。
 広い石ばかりの川原の流れ沿いに女性立っていて此方を見ている。しばらく視線を感じていたが、よく考えよく見ると案山子だった。足は一本しかない、あまりにも遠くなので人間に見えた。
 大斎原(おおゆのはら)に行く。国道沿いの鳥居をくぐり一度、水辺に下り、中瀬にある森へ入る。
高い木々に囲まれた、広場には、小さな石祠二殿が中心にあった。その他にか「一遍上人神勅名号碑」
という直筆の南無阿弥陀仏の碑があり、驚いた。神社の聖地に佛者の碑があることに驚いた。暗くなってきて、碑文は読めない。そのままもとの国道に戻り本宮に行く。
 熊野本宮大社の入口につく、既に真っ暗になっており、入口にある幟などは分かるが参道の先は暗闇だ。夕方にあわただしく食事したが、改めて食べたいと思っていたが街は暗く食堂は見当たらない。本宮の門前に食料品店が開いており、そこで菓子パンとポテトチップスを買い門前の灯篭の基礎に座り食べた。
 この先に道の駅があり、(何年か前に自転車で来たことがある。)そこで泊ろうかとも思ったが、直ぐに寝たかった。今晩は雨の心配がいらなし、あまり暗い中うろうろするのも地元の人に悪いので、入口近くの参道の暗闇に入り、土の上にシートをひいて寝た。木々が空を覆った。
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# by henroseikatu | 2010-03-07 17:18 | 西国徒歩巡礼