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托鉢遍路№056 職業遍路になって欲しくない 1月15日2012年

托鉢遍路№056 職業遍路になって欲しくない 1月15日2012年

速報の読者からきた以下「」のようなメール(部分)が来ました。
それで私は●以下の文を書きました。私の今の心境です。


「職業遍路になって欲しくない。あくまでも修行として、探求として遍路旅をして欲しい。だから釈迦のように托鉢は毎日毎日1時間、2時間すべきだろう。そしてあなたも世間のひとに施しをすべきだろう。顔が丸く話し方もまろやかだ。和顔愛語ができる。ひとを癒せる。顔施である。」


●そう、今やっているのは職業遍路の修行になっています。

門付けについていえば本来は、黙って門の前で読経するのが僧侶の托鉢だと思う。効率のために呼び鈴を押し反応がなければ次の家に移動しています。
托鉢でその日の食うためだけではなく、蓄え防寒衣類を買おうとしています。

気分の良いときには和顔施はできます。しかし托鉢する人を良く思っていない人とは、私の感情が高ぶって上手く対応できません。

仏の道を教える法施ですが、辻説法的なことなら出来るかとも思っていますが、私は話が下手で頭が回らないのでなかなかです。
勤行では、漢文の前の日本語の説明も共に読み、幾らかでも仏法が伝わればと思っています。
般若心経の宇宙的広がりを説明できたらと思ってもいます。


今、心にわだかまりがあります。この世で悟ったとしても、本当の完全な悟りは死んでからだと言う文を読みました。
そうして見ると般若心経は死後の世界を画いているように思えて来ます。そう考えると般若心経の言っていることはなっとくできる。
般若心経の真髄の執われない、と言うことですが無常をそのまま受け入れ一喜一憂しない、それが悟りに近づくことなのでしょうが、それは人間性からは離れて行くように思います。死人に近づいています。
仏法の世界にも建前と本音があるように思いだしました。

まあ、少しでも出家に近づきたいとは思っていますが、まだまだとうてい沙門にはなれません。


私は別のことも考えながら托鉢遍路をしています。
いわゆる職業遍路のことを記録できたらと思っています。
蔑視されもし、霊場会からからは、無視されている職業遍路ですが四国遍路の歴史上で重要な位置を占めていると思います。「接待」なども職業遍路を抜きにしては語られないことだと思います。
職業遍路の悪い噂を語り継ぐ人々がいますが、できたら良い噂を伝え、噂になれたらとも思います。


私は日雇いとして働いてきて、いつも底辺を見つめてきました。そして、その底辺は社会にとって必要不可欠なものだと思います。社会いや宇宙にとって存在価値のないものはないはずです。

突然ですが、夜が明けそうなので、地下室の棺桶にもどります。
早々
by henroseikatu | 2012-02-12 16:05 | 托鉢遍路 | Comments(1)
Commented by 匿名 at 2015-06-05 15:08 x
体は変化し、良い事をすると良い事がおきる。それがこの世だと思います。
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