昨晩泊まったところから少し行くと美加の台へでる。車道は立派な片道二車線になり、もちろん歩道完備、昨晩の歩道もない道と大違い、そして周囲は高いビルの宅地に占められている。
高野山女人堂へ八里塚の里程標 京の都と仏教の聖地高野山を結ぶ高野街道は、平安時代の皇族、公家や、中世から盛んになる武士、庶民の高野山参詣に利用されました。 ![]() 中世以降は、高野山参詣をする人の往来が特に多くなり、江戸時代には、一般庶民の社寺詣でも盛んになりました。そして、それらの旅人の利便性から、街道筋には多くの常夜灯や道標、里程石が建てられました。 道標や里程石には、角柱に加工したものや自然石、お地蔵さんの形をしたものなどいろいろな形がありますが、ここから南へ500mほど行った新高野橋の北側の袂にある里程石は、頭の先のとがった30cm角の角柱で、高さが178cmもあります。江戸時代、安政4(1857)年に建てられたこの里程石の一面には、「西是ヨリ高野山女人堂江八里」と彫られています。 このような里程石は、堺市榎元町にある「十三里」をはじめ、高野山神谷にある「一里」まで、ほぼ一里ごとの建てられており、13本のすべてがが現存されております。なお、市域には、この「八里」のほかにも、「九里」が古野町に、「七里が天見に残されたいます。 河内長野市 歴史街道 [三日市町駅前(南海高野線)にあった案内板] 三日市町駅から下高野街道を四天王寺にたどると。国道をこし高台になっている上田町に周辺の遺蹟の案内板がある。 上田町文化財・社寺等の歴史案内 二、上田胸切地蔵の由来 江戸時代初期に泉州堺のある資産家の娘が紀州橋本にある富豪の息子と婚約がととのい、吉日を選び花嫁が駕籠にのり、花嫁道具を多くの人夫にかつがせ、西高野街道と通り上田のこの急勾配の坂にさしかかった時、南の方から一人の男が息を切らせて駆けつけ、「私は橋本の婚礼先から参ったものですが、今朝花婿になる息子さんがどうゆうわけがあったのか、伝家の宝刀で自殺を遂げたの事をお伝えに使いとして参った」とのこと。一行は一旦堺に引き返す事になった。 その時駕籠の中よりただならぬ叫び声が聞こえ、駕籠の戸を開けて見ると、花嫁は着飾った晴れ着は鮮血に染まり、親元より用意の短刀を逆手に持ってわが胸を突切っており、手当の施しようもなく、絶えいる息の下より「我が家を出るときに、女と生まれ一旦他家へ嫁いだ以上決して実家には帰れないと常々両親から教えられ、自分にも深く心に誓っていた。それに今生涯の夫と定めた人が死んでしまった、かくなるうえは生きて実家には返れませぬ」 といい残してこの坂道で亡くなったという。上田村民はこの花嫁の霊を慰めるために相談し、この坂道に石地蔵を建てて祀りし、胸切地蔵として供養した。 又この坂を胸切坂とよぶようになった。この胸切地蔵は急勾配の坂の下り口の西側にお□りされていたが現在は少し上の交差点に移されお祀されています。 三、高野街道「堂の辻地蔵」 堂の辻地蔵は元々高野街道三日市宿の入り口で街道に面した増福寺の境内で堂の辻(高野街道往還筋)に在った地蔵で高野詣の人々の道中安全を祈願して建てられたもので、この地蔵尊と共に「南無大師遍照金剛」と刻まれた石塔があり、真言密教の弘法大師の御加護により道中安全に高野詣が出来るように祈願したものと考えます。又初瀬(はせ)寺からの高野山への供養塔(観音石像)も建てられています。尚、この地蔵尊他石塔の上には木格子に囲まれた三日市宿内上田駅の高札場が設けられ、堺及び紀伊見峠を結ぶ馬継ぎ宿駅の賃金札及びお定め書きが江戸時代まで掲げられていた。明治に入り石地蔵及び石塔のみこの場所に移され、小字名を「井の上」と呼ぶので通称「井の上地蔵」とも後に呼ばれています。 五、上田のふたつの森 江戸時代の古文書(上田村明細帳)に奈良時代(天平年中)の上田に大きな森が二ヶ所が在ったと書かれている。一つは三日市幼稚園及び敬老院の周辺一帯は「雨山(あまやま)の森」と呼んでいた。 天平年中この地域一帯に日照りが続き、百姓は水が無くなり米等穀物の苗が枯れ困難を極めていたが、その時一人の偉いお坊さん「行基」が通りかかり、住民の苦しみを見かねこの場所で雨乞いをしてくださった。おかげで空はにわかに曇り雨が降ってきて田畑は息を吹き返し、又池には水がたまり田に水を入れることが出来た。村人はこの場所を「雨山の森」と呼ぶようになった。 もう一つは上田の東側一帯の河川岸を「金の森」と呼んでいた。天平年中この地域を開拓していたとき土に混じって金が出てきたという、「きっとここに産土(うぶずな)神が存在されるのだ」と、この森を「金の森」と呼ぶようになり、後になってこの森に金吹(かねふく)稲荷大明神と福丸(ふくまる)稲荷大明神をお祭りしたという。 昭和になって現在の稲荷大明神がお祭りされている場所にニ体が合□されています。 一、増福寺四、上田金比羅宮六、高野街道三日市宿内上田駅「高札場跡」以上は省略 平成十八年三月吉日 河内長野教育委員会 上田町会 三日市町駅前も河内長野駅前にも高野街道の案内板があり、「ツールド大阪」との道標で近辺の歩行が案内されている。 河内長野駅近くの街道にあった灯籠と駅前石碑 ![]() ![]() 河内長野駅のアーケードから北北西に真っ直ぐにある道は細く自動車も通らない、昔の街道を思わせる。今は自転車が盛んに通っている。 ![]() ![]() 狭山へ入る手前で地元の人と話す。私が高野街道を歩いていると言うと、「今はそんな人はいないね、昔は南海でハイキングを募集していた」と言われる。 ずっと町をぬうように細い町内の道を行く。北余部で食事すると、もう外は暗くなっていた。もう街道を探しながら進むのは無理なので、大きな道を進むことにした。 2km程東に進み、国道309号線を北進する。松原市に入り国道沿いにあるインターネット喫茶に入り、シャワーを浴びる。 ▲
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| 2010-03-29 00:41
| 歩いて四国へ10年
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歩いて四国遍路へ3 紀ノ川わたり紀見峠トンネルこし 2010年3月27日
朝起きるとテントの片面には霜がついている。昨晩は雨が降らなくて良かったがテントは霜で重たくなっている。 昨日テント張った場所は大門、矢立から来る国道と極楽橋との合流地点だった。 川沿いに国道を下って行く。 昨日の極楽橋よりの下りではほとんど通らなかったが、高野山からの自動車も通る、国道370線は、盛んに自動車が連なる時もあった。 川の向こうの住宅が建たない尾根の高い位置を南海高野線が通っている。電車が通過するごとにキーーときしんだ音がする。ずっと国道沿いを下ってきた、車道沿いに民家が密集しだし高野下駅に着く、ここから国道は大きく左に曲がる。 高野下駅から遊歩道に入る。 ![]() その遊歩道の九度山駅近くで太い倒木が道をふさいでいた。チェンソーで既に根っこ側を切断してあり、下をくぐると、もしかのことがあると困るからと言い、木を跨いで越した。 久度山駅から国道に戻り東行する。 道路標識に大きく河内長野と書かれていたので、そこから左に道を曲がり紀ノ川を渡った。橋を渡ってからおかしいと思い、上流の橋に向かい進んだ。 それで「左京大阪道 右かうや」の道標もみつかり高野街道にもどった。 (後から検討してみると、高野街道のコースはもう一つ先の橋を渡り、橋本市街に入っている。) ![]() 橋本市街にこんなに大きい高野街道があった。この橋の上はJR線の電車が通っている。 二枚目写真の国道から、少し先の左の路地に以下のようなエピソードのある不動尊があり大切に奉られていた。 寺脇不動明王地蔵尊 ![]() 二百年前に、当地出身者の観蓮という僧侶が四国を遍路中買い取った不動明王を当地に送りましたがどうゆう訳か地蔵尊も共に送られてきたそうです。不動明王と地蔵尊が一緒にまつられているお堂です。[東屋三丁8] ニ体とも小さな堂に鎮座している。高さ1m20cm程の板に浮き出ていて、地蔵さんの背景は彩色され、不動明王は全体に彩色されている。200年たっているようには見えない。周囲は近隣の人に良く整備されている。 ところが、裏道だと思ったこの通りはやがて行き止まりとなり、さっきの車道に戻るはめになった。 橋本、御幸辻付近に五里石(是ヨリ高野山女人堂江五里)その案内板が以下 ●橋本市指定文化財(第22号) 旧高野街道 高野山五里道標石 昭和56年8月28日指定 高野山へ向かう街道で最も古く、多くの人々に利用されたのが東高野街道である。この街道は京都から、八幡、枚方を経て、生駒山西麓を南下し、河内長野から紀見峠を越え、町石道から高野山に至るもので、その成立は平安時代後期にまで遡るといわれている。その後、堺からの西高野街道、平野(大阪)からの中高野街道がひらかれ、河内長野で、これらが合わさって高野山に登ることができるようになった。なかでも西高野街道は近世に大いに栄え、今も堺の大小路橋を起点に高野山女人堂までの里程が記され、高野参詣の人々はこれを見るたびに1里ずつ近づく高野に思いを馳せたことであろう。これらはいずれも幕末の安政4年(1857)□□木村(くみきむら大阪狭山市)の小左ヱ門と五兵衛の発願によって13基建立され、すべてが現有する。 この道標石は、元々約300メートル南に建てられていたが、国道の建設により現在地に移設された。橋本市にはこのほか紀見峠に六里道標石、東家に四里道標石、学文路に三里道標石が残され、高野参詣の歴史の一端を今日に伝えている。 平成16年3月 橋本市教育委員会 橋谷区 紀見峠への登り口を探しながら進んだが全く分からず、峠下を貫く紀見トンネルの入り口になる。気温9.9度の表示がある。そのままトンネルを通過、トンネルをでると気温は8度になっていた。曇りの夕方4時になっている。 千早口駅手前で廃線跡遊歩道にはいる。そういえばここまで河の対岸の高い位置にずっと直線的に道が(街灯があた)続いていた。 駅前で食料を買い、しばらく歩くとレストラン8000番という廃業したドライブインがあり、そこでテントを張って泊まることにした。 ▲
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| 2010-03-28 23:55
| 歩いて四国へ10年
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和歌山北部の天気予報は晴れマークだったので、少しでも荷物を減らすためカッパを置いてきた。
南海高野線で橋本を過ぎた頃には雨が降りだした。 極楽橋からケーブルに乗る時には雪が吹雪いた。 バスで奥の院入り口まで行く。参道を歩いて行くと、太陽が出て一時暖かくなったが、雪がまた降りだした。 この日、夕方ちかくまで雪が降ったりやんだりの天候だった。 一枚目の写真 ![]() 奥の院の建物の裏に弘法大師御廟がある、今も大師はここに居て・・・写真撮影禁止のところであるが、大師様に誰もいない時を見はらかって頼んで、あわてて撮った写真です。 御廟を参拝してから高野三山に登る。 この高野山周囲の尾根の山道は女人道と言う。江戸時代、高野山が女人禁制の時、女性たちは高野山に思いながら歩いたそうである。 二枚目の写真 ![]() 今晩は高野山のどこかで野宿して、高野山を味わおうと思っていたが、雪がも降るこの寒さ・・・ 女人堂まで歩き下山することにした。 山道を下りケーブルカーの駅がある極楽橋に着いた。 そこから橋本方面へ私の持っている地図のコース表示は川の左岸沿いだった。ところが左岸の道は通行禁止になっていた。 反対の道は川から離れ山への登り坂だ。どこか他へ行きそうだ。 ままよ、バリケードをすり抜け川ぞいを下った。 三枚目の写真 ![]() その道の途中で一ヶ所、崖が崩れ土砂と岩が道をふさいでいた。 結局、この道使わなくても右岸側からも通行できた。 でも、歩きなら距離も短いし、自動車は通らないし、私のお薦めは左岸だ。 夜中に起きたら寝れない、寒くて、足先が寒くて。 それで携帯でこの文章を書き込んでいる。 まだ明るいうち、空き地に放置されているトラックの荷台を見つけた。左右に羽のように開く荷台で、その片方が閉まったまま残っている。床は板張りだ。 その荷台の上にテントを張った。 ▲
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| 2010-03-27 08:13
| 歩いて四国へ10年
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裏みちぞい物語
四国遍路みちぞい物語の中に載せなかった傑作な言葉●ここは公衆トイレではありません。 お寺のトイレです。 一人一人が責任をもって きれいに使用して下さい。 十夜ヶ橋 永徳寺 ありがとうの心 [43-44 2003年] ●イラク侵攻並あらゆる戦争暴力犠牲者各霊 涅槃満ち足りたおだやかな心 慈悲思いやるか悲しむか利他行 歌かき作ろう句を連ね平和を祈ろう心と世界に [51- 石手寺 2003年] 31-32●へんなおじさんに注意● 最近、南国市内に痴漢や露出狂などの変出者が出ています。 みんなが気をつけてへんなおじさんや若い人に出会ったらすぐ連絡してね。 南国市少年補導センター TEL 63-4201 23-24●捨てるんですか● 捨てるんですか その犬を、その猫を・・・ 捨てられたその犬や猫は、 これからどうしたらいいのですか? 動物を捨てると法律により処罰されます。 高知県・保健所 ●ごろごろ浜 水もころころ 山から海へ 山頭火 ●世界は平凡か? 未来は退屈か? 現実は適当か? 安心しろ それでも 生きることは 劇的だ! (少年ジャンプ「めだかボックス」より) [土佐清水 浄土宗蓮光寺] ▲
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| 2010-03-25 17:39
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歩いて四国遍路へ1 高野山から歩き出し 2010年3月25日
始めは歩いて行くつもりだったけれど友達も行くというので、電車で行って自宅まで歩くことにした。 最初は荷物をしょって試しに高野山まで歩き、帰りは電車に乗ろうと思っていた。しかし考えてみれば高野山から歩き始めた方が、四国遍路に行くのには好都合だ。今回は歩いて四国に渡る計画を練っていたので、どうせなら高野山の奥の院の参拝からずっと歩いて四国に行くことにできる。 それで高野街道を調べていると、大阪市中央図書館で委細に踏破した記録があった。 ◎歴史の道調査報告書 第二集 高野街道 大阪府教育委員会 ※2万5千分の1の地図が付いている。ただし府内のみ。 ◎高野街道を歩く 武藤善一郎 ※道標も一つづつ手書きされた地図、高野山へのわき道も網羅。 恐れ入りました。道標や地蔵の一つ一つを記録してあり、私達が往年の街道を思いながら歩くことができることがありがたい。 平安時代に京都の天皇・公家を中心に高野詣でが盛んになった。のちには武士・庶民にまで広がった。 高野街道とは京都方面から生駒山系西麓を高野山へ至る道で京街道とも呼ばれ、明治以降は東高野街道と呼ぶようになった。 東高野街道と共に古くから良く使われた道が堺市が起点の西高野街道です。四天王寺、住吉神社をへて、堺へ入ったようです。この道は河内長野で東高野街道と合流して高野山へ至ります。 四天王寺から真南に向かい西除川ぞいの道を下高野街道と言います。河内長野の手前で西高野街道と合流します。 前も一度大阪から高野山へ歩いて行ったことがある。その時は市販のガイドブックの粗い地図をたどり下高野街道という意識はなかった。今回は十分意識しながら、道標など見つけながら下高野街道を歩くぞ・・・ ●雨が続いた、明日は晴れるというので、明日の早朝、電車で高野山に行くことにする。 ▲
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| 2010-03-25 15:52
| 歩いて四国へ10年
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四国遍路みちぞい物語 歩かなければ見れない石碑、案内板より
いまあかす四国遍路の秘密 ついにあきらかになる四国遍路の真実 札所めぐりだけでは知れないこと 四国の大地を足で踏みつけ 四国の大地に寝ころんで 辺路を歩いてこそわかること そこにはお大師の足跡とともに 在野民衆の生活と民衆英雄の姿が浮かび上がる 辺路には為政者の姿はなかなか残ってはいない そのうち本に出来たらとも思っていたけれど まあ無理そうですし 私の四国遍路 公開します 以下のブログにて公開中 四国遍路みちぞい物語 ▲
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| 2010-03-18 22:02
| 四国遍路みちぞい物語
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四国遍路みちぞい物語
目次 3-4●岩田ツヤ子の碑●[畑の中の遍路道] 6- ●〝徒歩巡拝友の会の歩み〟● 7-8●三木武夫メモリアルパーク●[土成町中央公園周辺案内図]7-8●●[] 10-11●この上に天明義民弥五石門墓●[] 11-12●天然記念物 左右内の一本杉●[]12-13●杖杉庵縁起●[杖杉庵じょうしんあん] 17-18●弘法大師 お杖の水●[] 17-18●史跡旗山●[]日本一の義経騎馬像 23- ●紀州接待講の接待を受ける●[23番薬王寺] 23-24●即身成佛法海上人堂●[] 23-24●佛海庵● 23-24●英霊に奉げる和讃●[佛海庵内] 23-24●椎名の捕鯨山見跡●[] 23-24●室戸青年大師像●[] 24-25●中岡慎太郎銅像●[] 24-25●海洋深層水●[キラメッセ室戸くじら館] - ●六地蔵尊●[] 26-27●神峯のみち●[四国のみち 案内板] 26-27●手やり石●[] 27- ●神峯山・空と海の展望公園●[] 26-27●神峯のみち●[四国のみち 案内板] 27- ●神峯神社の大樟●[] 27- ●神峯神社本殿●[] 27-28●食わず貝 唐浜化石●[] 27-28●ごめん・なはり線●[] 28- ●大日寺奥の院 爪彫り薬師●[] 35-36●安政地震・津波の碑●[] 36-37●土佐往還「そえみみず」●[] - ●お雪椿●[]お雪椿(ヤブツバキ)高岡郡窪川町影野 37-38●四万十川、自然に生きる●[四万十大橋のたもと] 37-38●今大師の由来●[伊豆田トンネル前 バス停大師前] 37-38●潮害防備保安林●[大岐浜車道からの進入口] 38-39●足摺臼碆(うすばえ)彼岸の神秘的夕日●[中浜、清水港経由 足摺岬字大戸] 38-39●ウィリアム・ホイットフィールド船長殿●[中の浜] 38-39●十一面観世音菩薩●[叶崎休憩所] 38-39●小才角(こさいつの)●[] 38-39●月山神社●[] 38-39●歴史の人材の里 宿毛●[] 39-40●戸たてずの楠●[歓喜光寺の近く] 40-41●美しきみしょうトッポ話〝九郎おじやん空をとぶ〟● 40-41●美しきみしょうトッポ話〝トッポーこき〟●[] 40-41●柳水(やなぎみず)●[清水大師、柳水大師の道] 40-41●接待松(別称ねぜり松)●[清水大師、柳水大師の道] 40-41●女兵(おんなひょう)さん思案の石●[清水大師、柳水大師の道] 40-41●狸の尾曲がり●[] 40-41●鼻欠けオウマの墓●[] 40-41●クメヒチ屋敷 由来●[] 40-41●へんろ椿●[清水大師さき] 40-41●除災招福大観音之由来●[番外6番龍光院境内墓地 宇和島] 41-42●中山池●[四国の道ぞい] 42-43●島岩記念竹園●[宇和島高等学校] 42-43●杉原千畝 生誕百周年記念樹●[宇和島高等学校] 42-43●古代信仰の広がり●[愛知県歴史文化博物館] 42-43●茶堂●[愛知県歴史文化博物館] 42-43●弘法大師伝説●[愛知県歴史文化博物館] 42-43●真念●[愛知県歴史文化博物館] 42-43●四国遍路の●[愛知県歴史文化博物館] 42-43●衛門三郎(えもんさぶろう)伝説●[愛知県歴史文化博物館] 42-43●四国遍路の発生●[愛知県歴史文化博物館] 43- ●源光山明石寺(43番札所)●[] 43-44●二宮敬作翁 碑文の解説●[43番から下り道、博物館への遊歩道] 43-44●日天月天様●[鳥坂峠越え、遍路道] 43-44●四国霊場十夜ヶ橋●[番外8番永徳寺境内] 43-44●弘法大師御旅所●[番外8番永徳寺十夜ヶ橋下] 43-44?●へんろ道の歌●[44番大宝寺ちかくでた石丸さんにこの歌を教えてもらった。] 44-45●古岩屋不動尊復元縁起●[遍路道沿い] 44-45●八丁坂●[遍路道沿い] 44-45●八丁坂の茶店跡●[尾根との出合い] 45- ●お詣り御苦労さまです●[45番岩屋寺納経所で配布の文書] 45-46●仰西渠●[国道33号に沿って東側、仰西バス停が近い] 45-46●郷土をひらく久万の用水路● 45-46●久万街道●[三坂峠を北に下る遍路道] 45-46●(立寄所)弘法大師の網掛け石●[三坂峠を北に下る車道沿い] 45-46●弘法大師の網掛け石●[三坂峠を北に下り車道沿い] 51- ●弘法大師御尊像●[51番石手寺裏山頂上] 53-54●五右衛門堂ごえもんどう●[] 54- ●越智孫兵衛墓●[54番延命寺山門近く] 54-55●越智孫兵衛通勝翁 越智熊太郎三渓翁 顕彰碑●[54から 58-59●五郎兵衛坂●[58仙遊寺から59国分寺へ向い下り遍路道] 59-60●桜井石風呂●[遍路道からそれ海岸沿い] 59-60●四国遍路にて●[光明寺掲示板より「光明寺だより」] 59-60●御来迎所 文化十四年●[八幡神社すぐ上] 59-60●横峰寺御来光出現●[八幡神社すぐ上] 64- ●「托鉢」と「乞食」の違い●[64番前神寺掲示板] 64-65●若連中建立の遍路石●[11号バイバス沿い、戸川公園てまえ] 64-65●へんろ道とみちしるべ●[若連中建立の遍路石ちかく] 65- ●三角寺、三角の護摩檀● 66-67●鰻淵(おうなぎさん)の伝説●[] 67- ●銭形のいわれ●[67,68の裏山] 67- ●「弓張月」いわれ●[67,68の裏山] 70-71●題 救世義民大西権兵衛辞世之句碑●[本山寺から弥谷寺への車道西側] 70-71●七義民二百年大祭記念碑●[本山寺から弥谷寺への車道西側] 72- ●笠松大師●[曼荼羅寺納経所脇] 75-76●松崎渋右衛門辞世の歌碑●[満濃池湖畔、番外11番そば] 75-76●松波長谷川翁功徳之碑●[満濃池湖畔、番外11番そば] 78-79●旅に良薬あり!●[JRやそば駅から79への上り道沿い] 80-81●衛磨大師●[81番白峰寺登り道、高屋神社入口向い] 83- ●薬師如来縁起●[83番一ノ宮寺境内] 83-84●水を求めて●[香川歴史博物館] 85-86●海女の玉取り伝説●[JR志度駅] 86 ●海女の墓●[寺境内墓地] 86-87●京都中井氏の道標●[鴨部川にかかる長尾橋ちかく] 87-88●手洗鉢の由来●[川原の庵 宝政寺] 87-88●遍路の歴史●[へんろ資料館展示物より] 87-88●今なぜへんろ?●[へんろ資料館展示物より] 87-88●接待●[へんろ資料館展示物より] 87-88●遍路(細川憲哉句集)●[へんろ資料館展示物より] 87-88●猟師の話●[女体山への遍路道] 87-88●太郎兵衛の話●[女体山への遍路道] 88-10●地名と大師のゆらい●[犬塚大師堂] ◎この記録は私が2001年から03年までの二回の結願でノートに書いていたものを中心にしていです。それを後で入力し今回初めてブログに公開します。 「へんろみち保存協会」の地図で順打ちで歩いたときに、出会える順番を基本に、石碑や案内板の文章を記録しています。 ●題の前の数字は札所間を示しています。11-12は11番札所と12番札所への遍路道間にある、石碑案内板を示します。また11- の表示は11番札所境内、山門前、または後背の山など、次の札所への道ではない場所を表します。必ずしも遍路道順に項目の記載がなされていないかも知れません。 ●□は判読されない文字や表示できない文字です。 なるべき元の字体を表示するようにしましたが、旧字、略字などを表示できる字体で表示しています。 ▲
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| 2010-03-18 21:59
| 四国遍路みちぞい物語
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2003年から09年にかけて7回に分けて西国三十三ヶ寺を巡拝した。
初回は一番青岸渡寺から順打ちで廻り始め、二番紀三井寺まで歩いた。そこまでで一回目は終わりで大阪の自宅まで帰った。 2003年に歩き始めたが、その後はなかなか行けなくなり、2008年5月からは一月おきに巡拝をしだし、2009年5月に33番華厳寺まで歩き結願した。 とぎれ途切れの記録だけれども、見て下さい。 一回目は一番下です。↓ http://henroseika.exblog.jp/13034544/ 西国巡拝1回目 ここから入って「前のページ」をクリックすれば順番に見れます。 西国三十三ヶ所徒歩巡拝 2003年4月29日から2009年5月5日 7回の区切り打ち 1回目 03年4月9日~5月7日 1青岸渡寺~2紀三井寺 2回目 05年3月20日~21日 3粉河寺~4施福寺 3回目 08年5月 5葛井寺~9興福寺 4回目 08年7月23日~19日 10三室寺~19行願寺 5回目 08年9月21日~25日 20善峯寺~番外花山院 十二柱神社 狛犬 西国巡礼であった飛び出し君 6回目 08年10月14日~27日 25播州清水寺~30竹生島宝厳寺 7回目 09年5月1日~5日 31長命寺~33華厳寺 ▲
by henroseikatu
| 2010-03-07 23:14
| 西国徒歩巡礼
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■西国徒歩巡礼 区切うち7回目-2■
7回目 2009年5月1日~5日 ![]() 西国三十三ヵ所徒歩巡礼七回目 2009年5月5日 昨晩は、食事したスーパーの側の河川敷の公園の橋桁の下にテントを張った。疲れていて、足のテーピングテープもはがさず、横になったら直ぐに寝入った。 今朝、地図を見ると、どうも今日中に最後の寺に着けそうなので、どんどん先に歩く。 地図を見て確認しながら歩く。今回の行程は、ほとんど宅地のある場所を通った。店屋がない。今日、気がついたのは缶コーヒの自動販売機が見当たらなかった。 西国三十三ヵ所の最後のお寺、谷汲山華厳寺 たにぐみさんけごんじに着く。さすが33番、人手が違う、31番32番は境内で数えられる程の人数しか出合わなかった。 結願の寺と宣伝しているが、それだけではないはずだ。観光地として来ている人も多いだろう。 通りから山門まで長い、かなり急な坂だ。だが店やが連なりあきなくて、坂のことは忘れていた。。お土産屋や、食べ物屋だけではない。菊花石などの珍しい石か゛売っていたり、仏像を売っている。なにやらフリーマーケット適な店もある。 本堂に上がる。椅子に座って、ペットボトルのお茶を飲む。汗がひき、落ち着いてから、身支度を整える。 白衣をはおり輪袈裟(わげさ)をする。線香や経本等入れた頭陀袋を肩にかける。 奥くには本尊の前に畳の間があり、私もそこで読経したかったけど、お布施あげて坊さんに読経してもらっているようなのでね遠慮した。 一般の人は賽銭箱の前からお参りする。 持参したろうそくと線香を供える。このお寺では、ろうそくの世話係が終始ついていて、燃えかすの始末をしていた。 ひっきりなしに人が来るので正面に立ち続けることもできない。そこで賽銭箱から斜に離れた場所から本尊に向かって観音経をあげる。私が経をあげている間、とくに人が多く来て、立ち止まっている私は迷惑な存在に成っていた。 満願の時の感動を想像していたけれど、覚めきっていた。 参道を歩いている時から、宗教的雰囲気は削がれた。観光地という感じである。 汗をかきながら急な坂を登りきり、やっと目指すお寺に着く。すがすがしく誇らしくなる。そんな事はなかった結願のお寺でした。 ![]() ![]() 「おいずる堂」には満願した人々のおいずるや金剛杖が奉納されているが、納経帳まで奉納されていた。 ゆっくりと参道をくだり「満願の湯」にのんびりと入った。 そうしていたら、すでにバスの便がなくなっており、旧谷汲駅の構内で寝ることになった。 2001年に廃線になった名鉄谷汲線の車両を、この駅で静態保存しているのだ。 ▲
by henroseikatu
| 2010-03-07 22:52
| 西国徒歩巡礼
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![]() ■西国徒歩巡礼 区切うち7回目-1■ 7回目 2008年10月14日~27日 span style="line-height: 1.2;">2009年5月1日 電車で近江八幡まで行きバスで長命寺前まで行きました。 売店の前を進むと直ぐに参道の階段がある。しばらく登りるとT字路になっており、右手からの道にNPO西国古道の小さな道標があり、右に曲がるように矢印があった。私はそこで右に曲がったが、その道は麓へ行く道であった。つまり、下山の道を示したようだ。小さい道標で巡礼してきた人にしか分からないだろうが間違いやすい道標である。 この石畳の808段あると言う階段はこゴツゴツと段差があり、土が流され石が浮いているところがあり歩きずらかった。 尾根沿いの狭い境内は大きな岩石が露出し、琵琶湖の眺めもよかった。私が一番感動したのが、ひわだぶきの屋根の連なりだった。 31番長命寺を参拝してから、巡礼の道をそれ近江八幡の市街に入った。 お気に入りの<ボーダレス・アートミュージアムNO-MA>の展示を見た。 携帯電話の充電切れる 2009年5月2日 昨晩は次の32番観音正寺のある、きぬがさ山の取っ掛かりにある桑実寺の山門前でテントを張った。安土駅から住宅街で適当なテント張る場所がなく、ここまで来てしまった。 ほんらい桑実寺の境内を通るのが西国の道だが、この寺は入山料を払いなさいと書き、夜間は山門のひさしの下に入るだけでブザーが鳴る。今は朝5時、山門を入ればブザーが鳴り響く。 仕方なく麓の「木の道しるべ」まで戻り「観音正寺方面林道」を進む。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ ![]() http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b35.08.27.34&lon=%2b136.09.46.18&fm= ![]() なめ憲2号の道端から見える平和物件No.003 平和祈願釈迦如来像 江戸時代からあったが、戦争の時の金属供出で潰された。 そこで1983年に平和を願って造られた像だそうです。 ・・・とガイドブックに書いてあったが、現地では何の説明書もなかった。再建の思いは何だったんだろうか? 前大戦の時に 御国のために戦ってこい、死ねば極楽に行ける と言っていたのが仏教界だ。 願ったり祈祷しただけでは平和はやって来ないのはもちろんで。 ハッキリ 不殺生 兵が無用 戦争反対 と思うだけではなく、声を荒げ 行動していかなければならぬ。 ![]() ![]() 2009年5月3日 ![]() 三日目 関ヶ原に入った。できたら今晩これから歩き古戦場で野宿したい。 昨晩は旧道を外れ国道に行き食事し、思いがけずインターネット喫茶があった。免許証があるので会員登録して入った。で充電して、切れる不安は無くなったのでした。 今日は彦根から米原を旧中山道なかせんどう沿って、宿場町を見て歩きました。 すっかり暗くなりました。もう少し歩かないければ、・・・ 2009年5月4日 四日目 昨晩は暗いなか歩き続けて関ヶ原の戦場までたどり着いた。東首塚の小さな堂の縁側に寝袋で寝た。 戦場を見てまわり、歴史民俗博物館て時をすごした。 また中山道をたどる。旧道と言っても住宅街だ。旧道が途切れ国道を歩き、また旧道に入ったりする。 関ヶ原町から垂井町そして大垣市にいたる。 赤坂宿で中山道から分かれ北の方向に進む。ほどなく大垣市から池田町に入るる。 スーパーで半額の弁当を買って夕食にした。午後9時18分、これから国道沿うって歩き適当な場所があればテントを張るつもりだ。 ▲
by henroseikatu
| 2010-03-07 22:26
| 西国徒歩巡礼
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